感情の世界と刺激的社会の相違 

2014年8月21日

デザインされたものはほとんど退屈です。最近の絵を見て、何か物足りないものを感じるのは、絵がデザイン化され過ぎてグラフィック的な傾向が強いからです。見ていてワクワクしないことがほとんどです。勿論、これが私の好みから来ていることは百も承知の上です。

整理され、余計なものを排除してなどとデザインの関係者は言いますが、芸術の中には混沌とした生の姿を感じたいので、デザイン化された合理的な冷たさには辟易します。絵に限らず、芸術には混沌の法則を垣間見たいのです。

社会的に見たら、管理システムの中に組み入れて、人間を、庶民を整理して、無駄な人間は残らず牢屋にでもぶち込んで、なんてことになったら、どんな社会になるのでしょう。想像しただけで背筋がぞっとします。

 

無駄なんて無いはずです。

 

私が読んで感動したシュタイナーの言葉に、埃とは居場所を間違えただけのものなのですというのがあります。掃除好きな人が聞いたらはらわたが煮えくりかえってしまうかもしれません。

埃をきれいに拭き取って清潔にするのが好きな人がいますが、そう言う人たちはたいてい埃を敵視しています。ところが霊的に見たら埃というのはそんなに悪者扱いする必要のないものなのです。

もう随分前ですが、東大寺の二月堂を案内されて立ち並ぶ国宝の仏像群を見ていた時のことです。

「埃も立派な国宝です」と、案内してくださった方に言われた時の新鮮な感動は忘れられません。

思わず「そうかぁー」と、頷いてしまいました。

 

商業デザインはものを売る社会の中でもてはやされていますが、デザインされたものの命は比較的短く、あれよあれよという間に姿形を変えて、新製品が出回ります。商業デザインが刺激的なものをベースにしているからでしょう。

それと比べると楽器は何百年とほとんど姿を変えないものです。ヴァイオリンは制作者や銘柄が変わっても旧態依然、少々時代からの制約や要求があったにしても、三百年くらいはほとんど同じ形のままです。そういうものとして見ればそれだけのことですが、そこにはきっと何か理由があるはずです。

音楽というのが、そもそも情緒的なものだからです。刺激的なものとは違うところからきていて、そのためにある種の安定が優先するのです。

食器には、随分とデザイン化されたものが出回っていますが、これは今日の食事の仕方がグルメ化していて、刺激的な食事の仕方が徘徊しているからだと思います。食事がずっと素朴なものだった時には、食器もずっと素朴な、何百年もほとんど形を変えないものでした。

 

これが感情を理解する時に役に立つ考え方です。感情が理解しにくいのは、刺激的なものとは違って目立つものではなく、表面的な変化がなく、安定したものを求めているからです。感情とは目立たないものなのです。

今日の人間はとても不安定な状態にいます。人間生活が感情に根差したものではなく、刺激に振り回されているからに違いありません。

 

私の住んでいるシュトゥットガルトは工業系の町です。今は総合大学になっていますが、昔は工業大学しかありませんでした。

ベンツの本社がある町ですから、ベンツの巨大なロゴが中央駅のてっぺんを回転して、シュトゥットガルトのシンボルとなっています。スポーツ車のポルシェの本社があり、ボッシュという電気会社の巨大な本社もあります。ようするに理科系の人たちの多いところです。多いどころか、理科系的思考に占拠されています。言い過ぎかも知れませんが、町全体が、合理的で無駄を省くことに専念している人たちに支配されているのです。こんな町にシュタイナー学校が作られたのは、偶然ではないと思います。

そんな町からハイデルベルクに行くとほっとします。ハイデルベルクはドイツで初めて大学が出来たところです。当時の大学というのは神学を学ぶところで、それこそ暇な人間が、無駄なことをやっている様なところでした。今でもその伝統は少しですが残っていますから、町を歩いているだけで、無駄な者でも居場所を見つけられるようでほっとするのです。

街角の小さな喫茶店に髪ぼうぼうで長いひげを生やした、一見何の役にも立たない様な人が楽しそうにコーヒーを飲み見ながら、何やらこれまた何の役にも立たない様な本を読んでいるのです。

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