暇について - 学校の起源

2014年8月17日

自我というのは能力です。その能力があるから、人間である私たちは、自分が自分だと分かるのです。

これは、あまりに当たり前のことです。

そもそも、人間が立って歩けるのは自我があって、自我の能力によって歩けるのです。

歩けるのが当り前なように、自我があるのは当たり前なのですが、当たり前すぎることには、なかなか気が付かないものです。

誰も「自分は立って歩ける」なんて、取り立てて言う人は、いないようなものです。

 

家族は有難いものです。でも、家族がある人にとって、そんなことは当たり前すぎて、ありがたみが感じられないものです。

家族がしっかりしている子どもにとって、家族のありがたみなんて分からないのです。気が付かないのです。

自我のことを考えてみましょうと言っても、たいていは興味すらなく、素通りしてしまうのも同じです。

人間には、みんな自我が備わっているので、そんなこと、わざわざ考えないのです。

それが、どんなに有難く大切なものであってもです。

 

哲学というのは、そういった、普通はわざわざ考えないことを、ああだこうだと言うものと言っていいかもしれません。私は、そういうことが大好きなんです。

要するに暇人のすることです。

ところが、暇人にしか出来ないこともあるのです。はっきり言わせていただきますが、暇人は無駄な人というのとは違います。

 

ヨーロッパにスコラ哲学というのがあります。11世紀から13世紀に栄えたものです。

英語の学校という言葉になっているschoolの起源になっている言葉です。ドイツ語のSchuleも同じです。

このスコラ哲学が、何をしたのかと言うと、今日で言う、神学の礎を作ったものです。

スコラ哲学では、もっぱら神様のことを考えているのですが、神様は信仰の対象ですから、考えても見つからないものですから、神様のまわりを堂々巡りしていたとも言えます。それはともかく、神学を学ぶために大学ができました。イタリアのボローニャです。最初の大学は、神学を学ぶためのものでした。

ところが、先日、辞書をペラペラめくっていたら、このスコラという言葉にぶつかり、読んでみると、このスコラという言葉は、そもそも、暇という意味を現わすものだったのです。目から鱗でした。

哲学なんて、暇人がするものと同じ意味で、学校なんて、暇人が行くところだったのです。

 

今の学校からは、想像もつかない学校の姿です。今の学校は、忙しいところというイメージが強いです。こんな忙しくしているところは、社会的に見ても他に見つからないでしょう。

本来、暇でいいところが、こんなに忙しいのですから、もともと忙しかった所は、今、どのくらい忙しくなっているのでしょう。

そんなことを考えると気が狂ってしまいそうです。

 

兎に角、人間社会は忙しくなってしまいました。忙しいことが美徳のような社会です。そんな中で「暇です」、なんて言おうものなら犯罪人扱いされてしまうのが現代社会です。

ということは、自我に付いて考える暇はないということなのです。そんなことを考えている暇なんかないのです。忙しくしていなければならないのです。

 

植物、動物の自我は、まだ、神様がお預かりになっているので、植物や動物は自我のことに付いて考えることはしないでいいのですが、神様は人間に自我を引き渡されたのでした。ですから、人間は自我のことを自分で処理しなければならなくなったのです。

自我は能力です。自分が自分だと分かるためにはその能力が必要です。何故、自分が自分だと分からないといけないのでしょうか。

植物に譬えれば、植物が大地にしっかりと根付いて立っていることです。植物が立っていられるのは、自我のおかげなのです。

ところが、植物の自我は、神様がお預かりになっていますから、植物は、自分では何もしないで、神様任せでいいのです。

人間は違います。人間は、自分が立つことを自分でしなければならないのです。自分を自分だと知ることが、立つことになるのです。そのために、自分を自分だと知る能力が必要なのだということです。

 

その能力が、しっかりと活動するために、人間は、植物や動物が知らないものを発見したのです。

それが暇です。 

 

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