心のこと その四  五感と六感

2014年9月6日

心は生き物ですから糧が必要で、それを何処からか摂取しています。

五感で受け取ったもの、つまり触覚、味覚、視覚、聴覚、嗅覚は感じたものが心の糧だと言って見ようと思います。

 

五感で感覚したものは印象として心に刻印され、その後心の中で認知に変わって行きます。痛みを感じている時、美味しいと言って味わっている時、満開の花を見ている時、それはただ痛いとか、気持ちがいいとか、きれいと言う印象だけにとどまらないで、心の中で認知に変わって記憶となり、そこから私たちの人生に編入されて行くのです。周りにあるあらゆる物を、いきいきと感じ取ることが、ひいては生きていると言う実感につながり、そこから人生が充実すると言うことです。

 

五感からの糧は大切なものですが、五感だけでは一面的です。というのは五感が感じているのは物質だけだからです。

そもそも五感は物質以外のものを感じることはできないので、五感に頼る限り物質世界と関わっていることになってしまいます。

 

そこで第六感を登場させます。心にとって精神世界とのかかわりは欠かせないものです。

物質世界以外のものを感じるのが第六感なのです。

物質主義者の人たちでも第六感を面白おかしく遊びとしては扱います。「感がいいですね」という言い方まではしますが、結局のところ、「証明してみろ」ということになりますから、物質以外の世界のことは眉唾だと思っている筈です。

やっぱり第六感は信じていないのです。

 

イマジネーション、創造力、直観、直覚と言っている能力の総称が第六感だと考えています。

五感と第六感とで心は二つの世界とつながっているのです。

簡単に五の次に六が来ると言う風には考えないでください。五感の五つはそれで完結した宇宙です。

五感で物質世界からのものを受け取り心の糧とする様に、第六感で精神世界を受け取り心の糧にしています。私たちは物質世界に住みながら同時に精神世界にも住んでいるです。

 

第六感は物質的な実態のないモノが対象です。そうなると、感覚能力と同じ様に「感じ」と言うのは語弊があります。 「音楽は心の栄養です」とか、「時々は美術館に行き絵を鑑賞してください、心の栄養になりますよ」とか。「沢山詩を読んでいい言葉に接してください」など言いますが、それをどう表現するのでしよう。

今のところ感じると言う言い方しかない様です。

 

 

 

心は常に受け身的なもの。これはしっかり押さえて欲しいものです。受け身という姿勢を崩すことはないのです。心は感覚から送られてくる印象を受け取るだけです。受け取ったものが心の中に入り認知と呼ばれているものに記憶に変わります。心の方から無理に何かを感じようとすると(普通は起こらないのですが、仮に起こったとして)、思いこみという落とし穴に落ちてしまいます。その結果心は狭い、一面的なものに満たされ閉じてしまい、ついには干からびて硬直してしまうのです。

感覚したものが心に伝わらなければ、感覚したものは認知にならないので、私たちの人生にかかわって来ることはないのです。

 

第六感も同じで、精神世界、霊的な世界からメッセージが送られて来ます。それを受け取るわけですから受け身です。どんなものが降りて来るのかは向こう任せです。無責任で言っているのではなく、力んでイメージするんだ直観するんだとなると念になってしまいます。念はエゴイズムです。

第六感は先入観が大敵です。先入観は心を閉ざしてしまいますから、心を先入観から解放しておくことで第六感は磨かれます。

イデオロギーに溺れてしまうのは第六感にとっては好ましいものではありません。というのはイデオロギーも先入観としての働きをするからです。

コメントをどうぞ