沈黙から言葉へ、言葉から沈黙へ  最終回

2014年10月13日

日本の静けさと、西洋の静けさには違いがあります。

経験的にですが、日本の演奏家が弾いた西洋音楽は西洋音楽の静けさを表現していない様な気がしてならないのです。

静けさを演出しているかもしれませんが、静けさに辿り着いてはいない様です。

そもそも静けさはパフォーマンスの彼方のものです。

技術的には完璧と言ってもいいのでしょうが、私には何か物足りないのです。足りないのはいつも知的な落ち着きです。

聞こえている音は紛れもなく西洋音楽です。音符通り弾けばそうなるのでしょうが、消えて行く音の中に西洋音楽が求めているものが聞こえないことが多いのです。

音楽が消えるところは楽譜には表記されていませんから感じるしかないのです。教えられて解るものでもないのです。西洋的な知的な透徹した静けさがないと感じるのです。それは思考的静けさです。

西洋の文化には思考が通奏低音のように流れています。

 

西洋人が弾く日本音楽に日本の静けさを感じるかと言うと、これも難しいところです。

無秩序の中の混沌とした霊的な静けさです。静けさの根源に憧れる静けさと言ったらいいのかもしれません。後で俳句を例にとってみます。

 

音楽によるこの経験と今回の二つの沈黙という考え方にはどこか共通するものがあるようです。

日本的沈黙は円周の沈黙で、西洋は中心点の沈黙です。

 

日本的な感じ方の中に、お陰さまというのがあり、これは西洋的な考え方感じ方からは上手く説明がつかないものです。

西洋は基本的には「わたしが」というスタンスです。ところが「わたしが」がエゴで終ってしまうようでは、子どもです。

「わたしが」はいつかは無私に達するものだからです。

西洋は知的に無私に至ります。

日本は、それがいいのか悪いのか論議されるべきだと思いますが、無私が至る所にあります。 

二つの無私、大局は同じでも、とりあえずは別のものです。

 

さて話は変りますが万葉の日本語には枕詞というのがありました。現代人の感覚からすれば形式的な表現方法に見えるのでしょう。文法的にはその様に説明されていますが、そんな想像力のない言葉にま騙されてはいけません。当時の人にとってみれば必然的なもので、なければならないものだったのかもしれません。少なくとも枕詞を掛けることで掛けられた言葉が膨らんだことは確かです。次元の違う所に飛んで行った様に感じたのかもしれません。

古代ギリシャの言葉にも枕詞がありました。古代ギリシャに枕詞があったと知ったときの喜びは格別のものでした。ホメロスのイリアスとオデッセイには随所に枕詞としかいい様のない言葉の使い方が見られます。西洋の言葉もまだ枕詞を知っていた時があったのです。ギリシャの前のエジプト文化の名残でしょうか。

日本的な 円周の沈黙は、私たちの故郷である霊的な世界に接しているので、もしかすると霊界の言葉というのは枕詞と被枕詞の連続の様な言葉遣いなのかもしれません。私はそう考えています。意味で会話をしている現代人は、「それはどういうこと」と聞きながらお互いに理解しようとしているのになかなか理解し合えないでいるわけですが、それは意味というのが理解以上に誤解のためのものだということを知らないからなのです。

高校の古文の時間に柿本人麿の長歌に接した時、「一体これは何だ」と思ったものでした。現代語に訳したところで分かるものではないのです。全く意味をなさないのです。今日の私たちの日本語とは全く別物だと思って読みました。今にしてみれば、枕詞と被枕詞だけで出来ているということです。語彙から歌の意味が見えて来るというより、語調から世界が浮かび出て来るのです。

ホメロスの言葉も語調が大事です。当時の人々は歌を踊ったのです。意味の分析、解釈なんでする人は一人もいませんでした。歌って踊ったことをコロスといい、今日で言うコーラスのことですが、そもそもは輪踊りを意味したものでした。キリスト教の教会の天井で天使たちが踊っているところは、建築用語でコーラスと言います。天使たちのを踊りから来ています。余談ですが、ちなみにそこから直線的に伸びている部分は船と呼び、ノアの箱舟の船底のことです。

ホメロスの言葉は語調とヘクサメーターというリズムが命でした。トーントト、トーントト、トーントトというリズムが永遠に繰り返され、それに合わせて踊ります。動きは霊的なものを理解するのに欠かせないものなのです。枕詞は言語の踊りです。

きっと柿本人麿の長歌も、ただ読んだだけでなくも歌ったものに違いありません。あるいは心の中で歌いながら踊っていたのです。

 

日本の歌は俳句に辿り着いた文化です。西洋の歌は反対でシラーのバラードまで行ってしまったのです。

初めに述べた日本の演奏家による西洋音楽理解の難しさはここにあるのです。

俳句の中に多様性を感じるのが難しいように、シラーのバラードの中に静けさを見つけるのは難しいのです。

西洋で俳句が流行っていますが、意味を凝縮することにとらわれて広がりが乏しいものです。

シラーのバラードは太宰治が「走れメロス」のように書き換えてくれて初めて読めるようになるもので、詩として読むのは息が続きません。

 

両方には相反するものがあり、違いは決定的です。お互いに相いれないですから理解するのはとても難しいものです。分かった積りでもやはり分かっていないものです。

 

私はこの二つの文化が融合することを夢見ています。二つの沈黙がやがて一つになることをです。

まだ何も見えて来ませんが、これからもやることが沢山ある様で楽しみです。

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