ロボットからは天才が生まれない理由とトーマス・アクィナスのこと

2015年8月29日

世の中には常人の理解を超えた人がいます。天才と呼ばれ特別扱いされる人たちです。

今日は神学大全という書物を著したことで後世に名を残した、中世のキリスト教の世界に生きたトーマス・アクィナスという一人の天才についてお話しします。

 

彼は神学大全という書物を著した事で有名です。それ以外、実はよくわかっていない人ですが、その神学大全だけで天才と呼ばれるにふさわしい人です。

天才は歴史上沢山いますから、別にトーマス・アクィナスをわざわざ登場させる必要はないわけです。もっと馴染みのある、分かり易い天才でいいのですが、あえて彼に登場してもらおうと思ったのは、彼が「問うことの天才」だったからです。神学大全の中でトーマス・アクィナスは問い続けたのです。そしてその問いに自ら答えるのですが、その答えがまだ新たな問いに変化し行くのです。

日本語訳は60年をかけて2012に完成しました。全部で42冊という大部な本です。そこに彼の問い続ける姿が伺えるのです。さらに驚くべきことは、神学大全は彼が生前に書いたものの十分の一にしか過ぎないということです。もし彼の書いたものが全訳されることになると420冊になる勘定ですから、全訳には600年かかる計算になります。しかも彼は49才という若さで亡くなっていますから、驚くべきは彼の筆の速さです。当時は、700年前のことです、今と違ってインクと羽根ペンで持って紙に書くわけです。仕事量としても大変な体力を要するものだったはずです。

 

トーマス・アクィナスは神学大全の中で問い続けます。だから私は「問うことの天才」と命名したのです。少々問うことは誰でもします。しかし彼のように徹底的に、一生問い続けた人を私は他に知りません。問う、問い続けるというのは、相当訓練された、柔軟な思考力が必要なものです。問うというのは思いつきを口に出すのとは違うものだからです。

なぜトーマス・アクィナスはここまで問い続けられたのでしょう。この本を開くたびに私を襲うトラウマのようなものでした。ある時ふと頭の中にあるイメージが浮かんできました。トーマス・アクィナスの中にはバカが同居していたのではないかと気がついたのです。 

バカというのは頭が悪いということです。無知な人でもあります。物覚えの悪い人でもあります。トーマス・アクィナスの問う原動力は彼の半分が大バカだったからではないか、そんなことを考えたのです。

頭が良かったら分かっちゃうわけで、そこから問いは生まれません。問うのはわからないからです。バカが問うのです。

秀才はバカを同居させるどころか蔑んでいます。ここが天才と秀才の決定的な違いです。

そしてもしかしたら、他の天才と呼ばれている人たちの中にも同じようにバカが同居しているのかもしれません。この考察は次の機会に回したいと思います。

 

天才を天才ならしめている要因の一つは秀でた能力だということになっていますが、もう一つはバカが同居している事実だと言いたいのです。

天才とはとてつもない能力の持ち主である、というところで話が終わってしまえば、ロボットの中からもそのうち天才と呼ばれるにふさわしいものが出現するに違いありません。秀でた能力があれば秀才には成れますが、天才ではないのです。秀才と天才の間に横たわる溝はとても深く、その溝を飛び超えて秀才が天才になること稀です。それはほとんど不可能なことなのです。天才ロボットも難しいでしょう。

秀才にはバカの要素がないというのが致命的なことだと思います。バカなロボットというのは大きな矛盾です。

天才にはバカ、しかも大バカが備わっているのです。天才は、とてつもない能力の隣にとてつもないバカが存在している。これが私の獲得したイメージでした。天才は秀才よりもはるかに狂人に近いのはこのためです。とてつもない能力とバカの組み合わせがあって天才は天才なのです。

 

トーマス・アクィナスの神学大全に話を戻しましょう。

この本は難解中の難解な本です。しかしこれを著した当の本人は「初心者のための入門書」と呼んでいるのです。この矛盾に多くの人が悩まされました。私もこの矛盾をどう説明するのかと昔から悩んでいましたが、とてつもないバカが、てつもない能力に向かって問いを発していると考えることで、少しだけ謎が解けたような気がしたのです。

つまりバカがとてつもない能力を先生と仰ぎ、とてつもない能力の方はとてつもないバカを弟子として懸命に教えているのです。

これが神学大全の正体のようです。でもこれで神学大全のことが言い尽くされたとは思っていません。しかしこれが神学大全を理解する始めの一歩のはずです。

先生と弟子とが一人の人間の中に共存しているのです。これによって、天才は全て自己完結型、独学の人だということが説明できそうです。

先生と弟子とが同一人物の中に存在しているので、普通の先生・弟子の関係の何倍もの緊張関係がそこには生じています。他人同士では作り出せない高い緊張がそこには生きています。

 

現時点ではロボットはプログラムされたものというのが常識です。判断力とは言っても収集した情報の分析能力のことです。それはそれで大きな役割を担っていると思っています。

ロボットと人間を比べる時に注目すべき点は、人間には過去を洗い流す能力があるということです。それができなければ人類は恨みつらみの蓄積した醜いものになってしまいます。人間には忘れる能力があるのです。脳みその中には、一度出来上がったシナプスでもそれを新たに組み替える能力が備わっているということと共通します。ところが一度組み込まれたプログラムはロボット自身の力では修正できないのです。

つまり自問するロボット、独学のロボットが出現することもあるのでしょうが、その時は人類の滅亡の時ということになるでしょう。

でもその日は、来ることがあるとしても、多分はるか遠い将来のことでしょう。

人間が神になる時が来るかもしれないと同じくらい遠いい将来に違いありません。 

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