時は流れず、あるいは感動すること

2015年8月25日

「博士の愛した数式」という小川洋子さんの小説をとても楽しく読み、それが映画化されたものも同じくらい楽しく見ました。大抵は原作か映画かという選択になってしまいのですが、この「博士の愛した数式」だけは両方とも、今でも好きで読んだり見たりしています。

先日久しぶりにDVDで見ました。今回は最後のところで、生徒たちに少年の頃の数学博士との出会いを話す数学教師のルートくんが、「時は流れず」と黒板に書いたところに感銘を覚えました。時間は刻一刻と時を刻みながら流れます。ところがルートくんは「時は流れず」とさりげなく書いたのです。博士が今でもルートくんの心の中にありありと存在していることが伝わってきました。

 

その数日前、以前から約束していた、知り合いの九十歳になるご婦人を訪ねました。その方の部屋に入ると壁にドイツ語で「Jetzt、イェッツト(日本語では、たった今、英語ではjust, just now)」という言葉が貼ってあったのです。なぜその言葉なのか自分なりにしばらく考えてみたのですが、どうしてもそのご婦人が考えているところを聞きたくて長々と話し込んでしまいました。

     Jetzt、今この時というのは特別な時間で、流れ行く時間から外れているのものです。

     今だけが正真正銘の時間のように思っています。純粋な時間といってもいいかもしれません。

     過去にも未来にもとらわれない時間です。

     感動することによく似ています。

     いかなる人生経験からも離れて、今目の前に存在しているものに感動しているようなものです。

九十年生きた人間が、今でも、Jetzt、今を生きているのです。

 

その時の話の内容が、黒板にさらりと書かれた「時は流れず」と重なってしまったのです。

この物語の中の博士というのは、交通事故で記憶を80分しか保てなくなってしまった、かつてはイギリスのケンブリッジ大学で数学を学び、学位まで取得した初老の男性です。映画は、現在、数学教師となったルートくんの少年の時の思い出で綴られています。

高校の数学の教師になったルートくんにとって、少年の頃深い影響を受けた博士との思い出の数々は、過去の 思い出という色あせたものではなく、今も目を閉じるとありありと浮かび上がってくる、リアルタイムで存在しているものなのです。博士との出会い、そこでの様々な出来事は時間的に見れば明らかに過去のことですが、成人したルートくんにとっては今も生き続けている、色褪せることのない「今」として生き続けているものだったのです。そんなルートくんが黒板に「時は流れず」と書いたのです。

 

ご婦人の言葉通り「今、この時」と「感動すること」が私の心の中で交錯します。

両方ともまるで手に取るようにリアルにそこに存在しているものです。今、ここで目の前にあるものに感動している自分がいる。何者かということは全く問われないのです。問う必要がないのです。なぜなら、一人の人間であること、それ以外のことは感動しているその時なんの意味も持たないからです。純粋な人間存在、人間であることだけが、ただただ求められているのです。どこかの国の王様でもいいし、乞食でもいいし、億万長者でもいいし、ホームレスでもいいし、極悪人でもいいのです。社会的なステータスが入り込む余地はないのです。そんなもの問題外なのです。それが感動の正体です。

感動にはなんの掛け値もないです。感動したからどうなるものでもないのです。感動はいかなる価値体系からも解放されているのです。

 

Jetzt、今にはほんのすこしだけですが未来が含まれているようです。

でも目的とか目標とか言ったものとは全く別のものです。目的、目標というのは、整理されたもの、合理的なものだからです。そこにはそれまでの人生経験が意外とたくさん含まれています。

ところがJetzt、今、感動は過去からのしがらみからきっぱりと切り離されて白紙の存在なのです。

まるで澄んだ真水のように混じり気のない時間なのです。 

 

瞬間瞬間が移動して、私たちの居場所はずれて行きます。

瞬間瞬間が新しいのです。

Jetzt、今を真剣に生きられたらと願っています。

コメントをどうぞ