ライアーらしさ、ライアーのアウテンティックとは

2015年10月8日

ライアーの音を初めて聞いたときのこと思い出していました。かれこれ38前年のことです。

ドイツに渡りまずドイツ語をゲーテで学び、そのあとシュタイナーの後治療教育の勉強のためにビンゲンハイムに行きそこでライアーと出会います。

初めて弾いたライアーは小型ソプラノライアーでした。初めて接したライアーにすぐに感動したわけではありません。中学の頃からクラシックギターを弾いてきた者の耳には、音域がギターより一オクタープ高かったのでしょう、すぐには馴染めませんでした。

当時ビンゲンハイムではライアーが盛んで沢山の人がライアーを弾いていました。ライアーを聞く機会には非常に恵まれていたのです。上手な人も随分いました。上手にライアーを弾く人たちは大抵別の楽器をある程度弾く人たちでした。ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、フルート、ギター、ハープとそれぞれにすでに得意な楽器があって、その経験がライアーに生かされていたと思います。 

ビンゲンハイムでは毎週金曜日の夕方に子ども達のための小さな音楽会が催されていて、そこでは必ずライアーが演奏されていました。ですから、ライアーと出会う環境としては贅沢すぎるものでした。

弾く機会も増えてライアーに馴染んでいきました。静かに奏でられたライアーの響きは綺麗でした。しかしまだまだ感動するところまでは行きませんでした。聞いていてどことなく不自然な印象がいつもあって、金曜日の音楽会では、みんなが自分の得意とする楽器で音楽をする方が心に響きました。ライアーの音楽をどのように聞いたら良いのかがよくわかっていなかったのです。

そんなある日、クリスマスで演奏するライアー楽団の一員になるべくアルトライアーを手渡され、それを弾いた時のことです。弾いたとは言ってもポロローンと撫でただけです。弦の深々とした音が私に何かを語りかけてきました。ゆったりとした伸びのある余韻はまさに語りであり、言葉でした。苦手にしていたライアーが好きになった瞬間です。

ライアーらしさがそこに感じたのでしょう。いい楽器だと思いました。簡単なペンタトニックをポロローンと撫でただけでも味のある語りに生まれ変わりました。音楽と呼ぶにはまだまだ距離のあるものでしたが、その音楽以前の出来事でも何かを語りかけていました。それが私にとってのライアーらしさ、ライアーのア ウ テ ン テ ィ ッ ク の発見でした。シンブルな音の向こうにとても深々とした豊かな世界を感じました。シンプル志向の私でしたから、シンプルな音ですでに完結していることに感銘を受けました。

その後もライアーが上手になって行くなかでもこの出会いに立ち戻ることがしばしばあります。

 

ア ウ テ ン テ ィ ッ ク。この言葉は耳慣れ無い言葉ですがしばしばアイデンティティーと同じように使われることがあります。どちらも訳語としては「その人らしさ」なのでが、アイデンティティーの方はその人を外から決めたりするときに使います。あるいはその人を他の人と識別するとき、その人であると証明するときにも使います。例えば、迷子になっていた自分の子どもが警察に保護されたと聞いて、警察に行きそこでその子が自分の子どもであることを証明するとき、アイデンティティーという言葉を使います。身元証明です。

ア ウ テ ン テ ィ ッ ク はその人自身の中でのその人らしさですから、その人の人格的な部分に関わってきます。他の人と比べてどうのこうのということもありません。例えば、ある人が演説で立派なことを言ったとします。それを聞いている人に、「きっとどこかで聞きかじってきたのよ」、なんて言われるようではア ウ テ ン テ ィ ッ ク ではなく借り物です。ある行動が、ある発言が「本当にあの人にしか言えないし、あの人らしさを感じる」と他の人が感じるとき、その人の人格から生まれたその人らしさは人を感動させます。そのときア ウ テ ン テ ィ ッ ク という言葉を使います。本人は夢中でやっているだけで案外意識していないものでもあります。

ライアーのア ウ テ ン テ ィ ッ ク 、ライアーらしさ、それはシンプルです。ライアーは恐るべきシンプルさを持っている楽器と言えそうです。

 

シンブルは精神修行をする人間にとってのキーワードでもあります。修行が深まれば深まるほどその人から発せられるシンブルさは増してゆきます。余計なもの、無駄なものがなくなるということです。日常生活の中でもセンスのある人はシンプルさの大切さを知っています。芸術の世界でもシンブルさは命です。単純さ、素朴さ、素直さなどもシンブルで言い換えて良いと思います。

ある時ジャグリングの世界クラスの人が、息を呑むような高度な技術でお客さんを魅了した後、音楽のアンコールのようなタイミングで、さっき使った球を一つだけとって宙に投げたのです。繰り返し宙に投げているだけなのですがそれが実に美しいのです。磨き上げられたシンプルさでした。この基本があってさっきの高等技術が可能なのだと見ているお客さんがみんな納得していました。

 

ライアーのシンプルさはこれからどんな風になるのでしょう。

そもそもは、様々な障がいを持った人たちの生活の分野で活躍し認められた楽器でした。そこではライアーの持っているシンプルさが大きな力を発揮していました。私自身治療教育の仕事についているときに、この楽器でたくさんの難しい子どもたちの心を射止めました。寝るときにはこの楽器を弾かないと寝ない子どももいました。

子どもにとっての楽器がシンプルでありたいという願いがライアーを誕生させたのですから、当然といえば当然のことでなのですが、ライアーはライアーらしさから始まっていたのです。初期のライアーにはライアーのアウテンティックを感じるのです。

今は楽器も多様化しています。優れた演奏家もたくさんいます。多くの人がライアーに触れる機会が増えています。ライアー人口が増えることで、いろいろな考えがライアーの中に流れ込んできます。歓迎すべきことです。

しかしそんな中でシンプルなライアーらしさが消えかけているようにも感じます。

最後に、ひとつ。

子どもの頃からライアーを弾いてきたという人が多く出てきてほしいものだと願っています。

そういう環境をこれから作ってゆきたいと思っています。

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