感動に潜むユーモア

2015年10月10日

同じものを何人かで撮ってみると、撮影条件が同じでも、出来上がった写真はかなり違うという経験はみなさんお持ちだと思います。被写体が何かはあまり問題ではありません。

同じ風景を何人かで撮るとします。同じに撮っているので一見よく似たものが写っているのですが、よく見ると違います。

その違い、実に面白いので、どこからくるのか、色々と考えてみました。

まずその違いに驚くのです。同じ風景を見ているはずなのになぜか写真に撮られたものは違うのです。ある人の写真に他の人に見えないものが写っていたという、オドロオトロしいことではなく、写っているものはみんな同じなのに違うのです。

結論を先に言ってしまうと、何人かで同じ風景を目の前にして見ていても、それぞれは違う風景体験しているということです。視覚的には、つまり目に映っている風景、もっというと網膜に映し出されたものは同じだと思います。でも、写真が違うのは体験という内面化が写真に影響していると考えていいのでないのでしょうか。

風景は五感で捉えたものから内的な体験に変わってゆきます。瞬時に全てが起こってしまいますからシャッターを切るときにはすでに体験に変わっていると理解できそうです。

 

写真から離れましょう。

体験が内面化して経験になるのですが、それを熟成すると言っていいと思います。成熟は瞬時ではなく時間をかけて行われます。そこまでくると同じ風景でも、もう全く違うものになっているはずです。絵に描かれた風景は、技術的な優劣、個人差を考慮しても、写真とは比べものにならないくらい違います。このプロセス、さらに人生の中で、日常生活の中でも相当決定的な意味を持っていて、実は私たちは周りで起こっていることをぼんやり見過ごしているようでいて、実はいちいち理解しているということなのです。

同じ話を聞いたはずななのに、後で一緒に聞いた人と話すと「そんなこと何時言っいていた」ということがよくあります。一人の講師の話を聞いていても聞いているところが違うのです。私たちは自分に興味のあるものしか聞こえないのです。これは相当真実です。でもこれが経験であり、生きた理解なのです。つまり理解というのは個人の数だけあるものなのです。私たちは所詮エゴイストだからと極論する必要はないと思います。その程度のものなんだと納得すればいいだけです。みんな主観で生きているのです。見たいものしか、聞きたいものしか入ってこないのです。

 

体験、内面化、経験、理解ということが私たちの中で起こっているのですが、そこで力になっているのはイマジネーションです。このイマジネーションが働いているので、感覚したすべてのものに対してイメージを持つようになります。このイメージ、先ほどの理解と同じと考えていいと思います。イメージはピクチャーで理解は言葉によると言ってもいいかもしれません。

私たちは生きなが常になんらかのイメージを抱いているのです。美味しいものを食べた時、私たちはその味にイメージを持つのです。それを言葉にすると理解となるのです。

私たち人間は常にイメージを持ち、言葉で理解しながら生きていて、もし五感の部分だけで生きているとすると他の動物と同じになってしまい、条件反射で止まってしまいます。

イメージはとても不思議なものです。人の話を聞いても持つし、音楽を聞いても持つし、絵を見ても持つし、美味しいものを食べても持つのです。それなのに私たちは意識的にシメージが生まれるプロセスに関与していないのです。できないのです。音楽を聴きながら、「これにイメージを作るぞ」というふうには行かないのです。イメージは向こうからやってきます。そうして出来上がったイメージは私たちを人間として生かしているのです。人間たらしめているのです。

人間は考える葦である(パスカル)、我思うゆえに我あり(デカルト)というのは、人間はイメージを持ち理解する存在だと解釈してみてはどうでしょうか。

 

旅で目の前に前触れもなく現れる風景に鳥肌が立つほど感動することがあります。「いやいや参ったなー」と飛び上がる感動です。

ところで感動ってなんなのでしょう。

観光案内書に、「ここは感動的です」と書いてあっても、そこで感動するという保証はありません。「ここで絶対に感動してやる」と言っても実現しないでしょう。感動はいつも不意に向こうからやって来るものなので、一般的な前例も個人的な前例も役には立たないのです。

感動の特徴がもう一つあります。感動は瞬時に起こります。しかし条件反射のように瞬時に消えることはなくじわじわと体に染み込んで行きます。

感動は、感覚したもの、つまり目で見たものや耳で聞いたもの味覚で感じたものとイマジネーションの間にスパークが生じ、それによって生まれる稲妻のようなものだと思っています。感覚的に受け入れたものは普通は体験、内面化という道筋を通るのですが、そこが稲妻で吹き飛ばされてしまいます。道筋は省略されてしまいますが、イマジネーションからの働きかけがあるのでイメージはしっかり出来ています。もしそこにイメージがなければ瞬時に消えてしまうはずです。

ここで大事なことが一つあります。感動には主観的プロセス(体験、内面化のことです)が省略されているということです。感動はとりあえずは個人の中でしか起こらないものですが客観的とも違います。

では何かということになります。今目の前にしているものとイマジネーションの電気的な接触から始まります。そこにスパークが走り稲妻となります。それが感動です。。イマジネーションは霊的、神的な世界から地上で生きる人間に常に働きかけていて、それによってイメージが作り出されるのですが、感動した瞬間、私たちは個人である人間を超えた存在で、私たちに固執するエゴは吹き飛ばされ、自分を超えたレベルにいるのです。超自我などは違い、その瞬間神的なものに包まれていると理解しています。

私は感動ということが起こることに感銘を受けるのです。人間の不思議と素晴らしさをそこに感じます。

英語で感動はemotion, impression, feeling over, stir, affection と色々な言い方をしますが、ドイツ語では一つbegeistern です。geist とは霊的な存在ですから、begeistern というのは「霊が宿っているむ、「霊に 包まれている」と解釈できます。

 

五感が反応しているものは先ほどから条件反射と結びつけていますが、これはとても硬い、融通の利かないものです。五感で受けた感覚印象のままだといつまでも硬いままで、しかも瞬時に消えてしまいます。体験、内面化、理解というプロセスの中で硬さがほぐれて行くのですが、それはイマジネーションという霊的な働きかけがあるからです。

理解というのは柔らかくしなやかで、しかも流動的なものなのです。だから理解は広がったり深まったりできるのです。理解の敵が固定概念だというのはこれでよくわかっていただけると思います。固まってしまった理解で、広がりも深まりもしないのです。思い込みと誤解以外の何物でもありません。

私たちの中には流動的な理解を固めようとする力が相当強く働いていることに触れたいと思います。人間の中に知性が強く働き始めた時からだと思います。概念思考が優勢になったのだと考えています。物事をイメージするのではなく、言語的に概念化してしまうのです。イメージ的理解のままであれば流動的なのですが、イメージは水の上に線を引いたようなもので、紙の上に描いた線とは違って曖昧なものというふうに見られてしまうのかもしれません。

 

これで最後になりますのでもう少し付き合ってください。

私は 感 動 体 質 と呼びたくなるものを感じるのです。これを持っている人はとてもしなやかな人という印象があります。それだけでなく感動しやすい体質で、実際によく感動します。感動するから体がしなやかになるとも言えるので相互作用があると思っています。

ここで区別しなければならないのは、感 激 体 質です。何にでも「わー」、「あらー」と言って感 激 する人がいますが、これは感 激 体 質  (カンゲキ体質)で、感 動 体 質 (カンドウ体質) とは全く別物で、条件反射に近いものだと理解しています。感激したことは、体の中にじわーっと染み込んで行かないで、感激した後すぐに消えてしまいます。随分無責任なものだと思っています。

感 動 体 質 とユーモアは同じことの別の呼び方です。ということはユーモアというのも体質(?)だと言えそうです。魂の体質でしょうか。

感 動 体 質 はユーモアが作ってくれると言っていいかもしれません。ユーモアというのは人間性を柔らかくしなやかにするために私たちの中で働いています。感覚はどんな人の場合でも硬いのですが、ユーモアがあれば体験から内面化、理解へと進む過程がしなやかになり、イマジネーションとの間のスパークが強くなり稲妻である感動が大きくなるのです。感覚が鈍く、ユーモアがなく人間性が硬いとイマジネーションとの間のスパークは弱く感動という雷は起こらないかもしれません。

感覚のことを少し悪く言いすぎたかもしれません。しかし実は、この感覚、とても大事なもので、磨かなければならないのです。磨くというのは感覚が透明になるということです。感覚というのは窓ガラスのようなものですから、そこからたくさんの情報が入るように常に磨いていなければならないのです。その豊かな情報をユーモアがしなやかにイマジネーションにつなげてくれているのです。

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