感覚遮断タンク

2016年3月11日

私たちが生きていることをしっかりと支えているのは、私たちが感じるからだと考えています。

感じること、つまり感覚することは、私たちの存在を支えているのです。五感に感謝すべきだということです。

感じるのと刺激に反射的に反応するのとは違います。お店の入り口の自動ドアや、暗いところでもセンサーで感知されたら電気がつくという、外からの刺激に反応するのではなく、感じるのです。反射的に反応すると感じるとは大違いなのです。

感じるというのは、感じているものと感情的な関係が作られるということです。

この感情的関係が心だと思っています。心があるから私たちは外の世界と結びついていられるのです。

算数の数式を解くようになりますが、感じること、感情的関係が持てること、心があること、だから私たちなのです。

さらに、感じることがたくさんあれば心に広がりが生まれ生きる喜びも増すのでしょう。

 

先日変わった経験をしました。 

感覚的な刺戟をできる限り遮断した感覚遮断タンクと呼ばれているもの中に90分入りました。

そこは真っ暗で、音もしない空間です。それだけでなく、西洋式バスのような浴槽に張られた水の中に入ります。温度は37度前後です。その水はイスラエルの死海とほぼ同じの濃度の塩水ですから、そこに浸かるとまるで無重力の中にいるように体は浮きます。

感覚することによって私なのだと考えていますから、入る前は、そこでは私が消えて無くなってしまうのでないかと予測していました。ただ、「私がなくなる」というのはどういうものなのか、それが知りたかったのです。

初めは今までの重力から受けていたものが徐々に解放されて行きました。体がスパイラルにぐるぐる回っているように感じたのですが、実際は西洋式のお風呂のような中にいるので体は静止状態です。一体何が動いていたのか、後で考えてみたのですが、その体験は目眩に似ていたので、三半規管の中の習慣のなせる技ではなかったのではないかと、今は自分を納得させています。

感覚を遮断されると時間感覚が全く消えてしまいます。ですからそのスパイラな体験は時間の長さとしては捉えられませんでした。どのくらい自分がタンクの中にいるのか、いたのか、それすらはっきりしません。ただ初めから90分という約束で入ったので全部90分痛ということが分かるだけです。

目眩のような状態がだんだん薄れてゆく中で「不覚にも」寝てしまいました。

どのくらい時間が経ったのかわかりませんが、目をさますと、なんとなく私がいるのです。私がいつも私と思っているものでした。それは今思うと記憶の中の自分だったのかもしれません。「私は今タンクの中にいる」そのことを知っているに過ぎず、いま、そこで、実際に起こっていることを記憶を使って整理していたに過ぎなかったのだと思います。

一体全体自分に何が起こっていたのか、というと、分かりません。しきりに暗闇を感じようとしていたようです。音がしないことを感じようともしていました。しかしその行為はどこにもたどり着かない虚しいものでした。

そしてまた寝てしまいました。

不覚にも寝てしまいましたと書きましたが、眠りに入ってゆくのが一番自然な流れだったと今は思います。

疲れていたのだろうかと振り返ってみたのですが、いつも以上に疲れていたとは思えません。それなのに睡魔のようなものが襲ってきます。吸い込まれるように寝入ってしまったのです。死後の世界に入る時とはこんなものかもしれない、睡眠が死に近いものかもしれないという予感を初めて覚えました。

とても深く、ぐっすり眠っていたようです。どのくらいの時間だったのか全くわかりません。

タンクに入る前に、時間がきたら耳元に空気の泡を送りますと言われていました。耳元のボコボコという音で目が覚めましたが、初めはそれがなんなのかすら思い出せませんでした。が、意識がだんだんと戻ってきて、それが終わりの時間を告げるものだったことを思い出して、水から体を起こそうとしたのですが、ふらついて体が思うようにコントロールできません。まずゆっくりと上体を起こし、しばらくして膝を曲げて座り、徐々に水の中から立ち上がり、タンクのふたを開けて外の世界に出て行きました。外とは言ってもそこはまだ薄暗く、しばらく体と、光の感覚に目を慣らし、それからシャワー室に行き、体の塩水を流しタンクの体験は終わりました。シャワーのお湯がとても現実的なものに感じられました。

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