八十八夜とペットボトル

2017年5月3日

夏も近づく八十八夜と子どもの頃に歌った覚えがあります。

昨日養護学校の先生をされている、檜山祐子(ピアニッシモにいつも寄稿してくださっている方です)さんから、今の子どもたちにはこの歌の意味がわかっていないのにがっかりしたとメールをいただきました。
お茶っ葉がわからない、そのお茶っ葉を摘むなんてもう死語になっていて、急須でお茶を入れることも見たことがある程度、ではお茶とは何かというと、ペットボトルに入っているものだそうです。

ペットボトルは日本の文化を変えてしまったようです。
ペットボトルが食卓にあったりするとがっかりするのはきっと私が古い世代の人間だからなんでしょうね。

水分を補給しなければいけないと世間はうるさいです。一人一日二リットルの水分を摂取しなさいという人もいます。その情報に煽られてか、外に出る時にみんなペットボトルをかばんに入れてでかけます。会議などでも、席に必ず一つペットボトルが置かれています。確かに喋ったりすれば喉が乾きます。部屋も乾燥してたりすると喉がガラガラします。コンクリート造りの建物の中は特に乾燥していますから、ペットボトルは会議の必需品に格上げされたということなのでしょう。

昔は事務所などでは、お茶汲みという役もありました。お茶汲みのために一人雇ったりしていたところもあります。社会状況が変わって、お茶汲みがいつも女性の仕事と決まっていたのが差別ということでよく思われなくなって消えてしまったと聞いたことがあります。
しかし出先の応接間でお茶が出てきたら嬉しいものです。
ペットボトルよりずっとおもてなしされていると感じます。
私が古い世代の人間だからでしょうか。 

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