ラファエルのマドンナ像

2012年7月5日

今日はラファエルのマドンナの像に就いて書いてみます。

 

ラファエルの画業の中でマドンナの絵は大きな位置を占めています。

特にシュタイナー教育にかかわると、シュタイナーがラファエルのマドンナの像のもつ力を、教育的・治療的な観点から再三にわたって述べていることもあり、ことさら気になるマドンナの絵です。

 

ラファエルのマドンナの一つを先日ゆっくりと見る時間がありました。

そのマドンナの絵はいままで見たことのないMadonna del Passegioというタイトルで、ラクダの毛皮を着たヨハネと聖母マリアにもたれかかる様にしている裸のイエス、二人とも二歳くらいの子どもです、この二人が顔を寄せ合い、見つめ合う様に描かています。

成人した人は、こんな間近な距離で他人を見ることはないでしょう。私の経験でも、治療教育の仕事をしている時に、子どもの中に他の子どもの顔にくっつかんばかりの距離で話しかけているのを見たことがあるだけです。

このモチーフそのものが非常に珍しいものですから、これをこの絵の大きな特徴として挙げることができるのですが、私には、どうしてもマリアの表情から目が離せませんでした。

 

いままでにも幾つもラファエルのマドンナの絵には触れて来ました。ヨーロッパに居る利点です、ドイツのミュンヘンでも、イタリアのフィレンツェ、そしてローマで。それぞれのマドンナがもつ美しさは、いま思い出しても心に深くしみ込んでくるものです。

 

今回のマドンナ体験は今まで以上に、何か、とても手ごたえのあるものが私の中を通り過ぎて行きました。

何故シュタイナーは再三ラファエルのマドンナに言及するのか、よく疑問に思ったものでした。シュタイナーの教育の中に居ながらとても不謹慎なことだと解っていましたが、どこの幼稚園に行ってもマドンナが掲げてあり、しかもそれらはたいてい同じもので、いくらシュタイナーが言っているからといって、そこまで執要にこだわる必要はないのではないか、そんなあまのじゃくも頭をもたげることが随分ありました。

 

ラファエルのマドンナの絵は、そんな私でも、絵のもつ無重力的な存在感がいつも不思議でした。絵がこんなにも「重力観」を超えて描かれていることは珍しいと思います。いま、何の準備もなく私の絵画体験から幾つかの絵を思い出しても、他の画家からはこれほどの「無重力感」を体験したことはないと言えます。

 

今回出会ったMadonna del Passagioもマリアの存在が無重力的に私に語りかけて来ました。特に表情です。この絵の中のマリアの表情は、ラファエルの描いたマドンナの中でも特別な無重力感を感じさせます。

決して人間味のある表情ではありません。人間の感情的な、喜びとか悲しみというものを超えた「何か」です。もちろん無表情ではなく、深い表情をたたえています。

「そうか、シュタイナーはきっとこの人間的表情を超えたマドンナの表情を高く評価したのだ」と、自分で決めて、更に絵の中に入って行こうとした時です、マリアのこの全てを含みこんだ様な深い表情が、私の中で確固たる「現在」、いま自分はここに居るという意識に変わっていたのです。「いま」です。「いま」というかけがえのない時間が、何時の間にか凝縮して私の意識が引き込まれてしまいました。

 

私はある種の空状態の中に居た様です。そこにはただ「いまがある、ここに自分がいる」という感覚以外のものは感じられませんでした。「いま」の中で満たされいました。その真空の「いま」の中で、マドンナが私を鼓舞していました。

それは真空の中から湧き出て来る泉でした。泉は、只こんこんと静かに湧いていました。

それは直接生きる力につながるものでした。

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