バッハと芭蕉はよく似ています

2018年12月31日

最近よくあるのは、芭蕉の句を読んでいる時にふとバッハの音楽に似ていると思うことです。これに似たことは若い時にも経験しているので、詩が音楽を想起させることにさほどの不思議を感じないのですが、何がそうさせるのかにはいささか興味があります。

若い時に似た経験があると言いましたが、それは源実朝の和歌とモーツァルトが重なって聞こえていたことです。実朝の金槐和歌集を読みながら、モーツァルトの音楽の一節を頭の片隅で思い出していたのです。二人は同一人物だと思えたほどでした。小林秀雄がモーツァルトを評して「疾走するかなしみ」と言っていたのが少しは影響していたとは思うのですが、彼といえども実朝とモーツァルトを重ね合わせることはしていないので、私が勝手に決め込んだもののようです。実朝の無邪気さの奥に潜む悲しみとモーツァルトの明るさの奥の悲しみは同じ根っこからのものに聞こえたのです。特に、モーツァルトの短調の曲を聴いている時よりも長調の曲の方から一層悲しみが聞こえて来たのです。それは今も変わりありません。その悲しみは悲しい表情を見せることなく明るく振舞っています。

 

芭蕉とバッハの組み合わせは技巧的なところです。その意味で人工的です。

芭蕉の句は読むたびに人工的な句だと感じてしまい、もっと自然に詠めなかったのだろうかと余計なお節介を挟みたくなるのです。

だからと言って、芭蕉の句が素晴らしい句であることに変わりはないのです。何度も編集を重ねた挙句、ようやっとたどり着いたもので、読んですぐ芭蕉の句とわかるし、その完成度、言葉選びは比類なきもので、俳句の神様、俳聖と呼ばれるにふさわしい風貌を備えています。

なぜ芭蕉からバッハが聞こえてくるのかは、二人の作品が屈折していて素直な表現ではないからです。さらに、それでいて極々自然に感じるのです。

バッハはドイツでは比べる音楽家がいないほど高く評価されています。ある人が、好きな音楽家を五人あげてくださいと質問され、「一にバッハ、二にバッハ、三・四がなくて五にバッハ」と答えたそうで、平均的ドイツ人ならほとんどがそう答えるに違いありません。バッハは「近代音楽の父」どころかドイツでは「音楽の父」なのです。それはドイツ人気質にぴったりだからです。まるでオーダーメイドのスーツに手を通したようなもので、吊るしのスーツなど着る気になれないのです。

ドイツ人が物事を説明する時はできるだけ複雑に、難しく、一くねりも二くねりもさせます。そのほうが上等なことを話していると錯覚しているのでしょう。そのドイツ人の癖とバッハの語り口は驚くほど似ているのです。

日本人の私にはそんな癖がなく、なんでもっと直接的に簡単に話さないのかと不思議がっていますが、ドイツ民族に深く根付いた癖でどうしようもないようです。私にはその一くねり、二くねりがとにかく邪魔で、そんなところに力を入れるのなら、簡単明瞭に、素直に、わかり易く話せばいいと、いつもイライラしながらドイツ人の話を聞いています。

バッハのフーガには五声からなるものがあるのだと先日バッハが好きなピアニストから聞かされましたが、その時の私といえば、エンジニアが「この新しい機械は五つのことをいっぺんにこなす能力があります」と言った話を聞いているかのようで、フーガが五声からなることと音楽とはどういう関係があるのか、実際に演奏してもらった音楽を聞いても、曲がりくねった説明を聞いてもわかりませんでした。

 

バッハの音楽家としての偉大さは、非音楽的な世界から音楽へ至る道を切り開いたことにある、私はそう考えています。そのために色々な技巧的な手段が必要だった、ということです。

芭蕉の俳句もただ優れた俳句というのとは違い、私たちが芭蕉の句に感動するのは、技巧的に洗練することからそれまでなかった俳句の美を引き出してくる芭蕉の手腕に驚いているのではないか、そんな気がするのです。

ある意味バッハと同じで極々自然に感じられる人工美なのです。

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