ドイツ語の非人称代名詞のEs、すなわちIch

2012年7月23日

ドイツ語には非人称代名詞というのがあります。

文法嫌いの人には申し訳ないですが、しばらく文法の話しです。

しかし、できるだけ解りやすく、面白く話しますから付き合ってください。

 

先ず代名詞から整理しておきます。

代名詞というのは私、あなた、彼、彼女、私たち、あなたたち、彼等、彼女等、あの人達、それ、それ等という具体的なもの、名詞になるものを代用する言葉です。名詞を代用するから代名詞です。

ドイツ語に非人称代名詞という特殊な世界があります。

それを言いあらわす時に、人称代名詞のEsと同じEsを使います。

両方は形だけでは見分けがつかないものです。

この非人称代名詞、どこでそう言う変わったものが登場するのかと言うと、自然現象とか、あるいは訳の解らないもの、つまり名詞化できない様な偉大な力のこともあります。何とも妖しいものから、手ごたえのないものを主語にする時にも使います。

これは英語のItですから、雨が降ると言う時に使うItです。

英語ではIt rainsとなり、ドイツ語ではEs regnetとなります。

この主語は非人称代名詞が主語になった文章は、日本語に訳す時にはとても苦労します。ほとんどの場合が主語を付けられません。

もし非人称代名詞を人称代名詞として訳してしまうと「それが降る」となります。この訳はとんでもない間違いです。

 

ItもEsも、意識の対象になりにくいものをなんとか言葉にしようとした結果生まれたものです。

 

ところがドイツ語、英語でアジアの精神世界に言及する時、よくこの非人称代名詞が使われます。

特にアジアの本質的なことを言おうとする時には、必ずと言っていいくらい非人称代名詞です。

どうしてかと言うと、ヨーロッパの自我文化から見てアジアの文化は違う物、訳のわからないものに見えるからです。

あるいは別の見方から、アジアにはヨーロッパの様な円の中心になる自我がないので、アジア的な中心を言いあらわそうとして非人称代名詞を使うということです。

そこで苦肉の策として非人称代名詞を登場させます。アジアの文化の知友芯にあるものは捉えどころがないものだからです。

雰囲気的にはぴったりのところがあるので、今では定着した感があります。私も面白い発想だと感心しています。

 

しかしここで気になるのは、この非人称代名詞とはそもそも何なのかということです。

なんでドイツ語、英語にはこんな用法があるのかということです。

もちろん理由はちゃんとあります。

しかし不思議なことにほとんどのヨーロッパ人はその生い立ちについては知らないのです。

ちなみにドイツの人に非人称代名詞はなんですかと聞いてみましょう。誰も答えてはくれません。

唯一の答は「そういう風に言うのだ」です。

これは答ではありません。

 

勿論日本人のドイツ語専門家に聞いても答は期待できないです。

この非人称代名詞、それほど厄介なのです。

しかし言語的説明が厄介だからと言って、この非人称代名詞の精神的背景が難しいかと言うと案外単純です。

 

ドイツ語には昔、今は使われなくなってしまった第二格で目的語を取るという習慣がありました。

今は動詞の目的に使われるのは第四格です。

それを取る、という時の「を」です。飯を食うの「を」です。休暇を楽しむの「を」です

二格ではどういう風になるかという、全く違う物になります。敢えて訳すと「お陰さまでいただきます」となります。「お陰さまで休暇は楽しいです」という具合にです。

ドイツ語には昔、だいたい中世までですが、「お陰さま」格というのがあったのです。もちろんそう言う意識もあったのです。

非人称代名詞の故郷はこの「お陰さま格」の中にあります。つまりお陰さま意識が非人称代名詞の故郷と言うことです。

ですから、そこを踏まえてEs regnetを訳せば「お陰さまで雨が降っています」となります。英語のIt rainsも同じです。

ここを押さえないと、「それが降る」と言うトンチンカンな訳をすることになります。

 

ヨーロッパの人がアジアの精神文化に非人称題名を当てたというのは、実は苦肉の策なのですが名案です。

偶然とは言え「アジアに生きているお陰さま感覚」のことを言い当てていたのです。

優れた言語感覚を持った人の本能のなせる業です。

 

現代のヨーロッパの人の意識には勿論「お陰さま」という意識はありません。

だから二格と言う目的語格は消滅してしまいました。

だから非人称代名詞の故郷も見えないのです。

 

ヨーロッパはアジアの精神的な核心を言いあらわす時に、自我に対応させるものとして、この「非人称代名詞」を持ってきたのです。

そして自我 Ich と非人称代名詞 Es を並べたのです。

 そこにはもう非人称代名詞 Es の本来の意味は消えていて、Ich に対応するものとしてEs を置いたのです。

 

ところが、この二つ「自我」と「非人称代名詞」を並列させることは強引なことです。

そもそも次元の違うものだからです。

なぜかと言うと、非人称代名詞で表現されているものは人間的レベルを超えているものだからです。

人間の自分と言う意識から生まれた自我 Ich は人間レベルの話しです。

 

私は自我 Ich は非人称代名詞 Es の言おうとする「お陰さまの世界から」生まれたものだと思っています。

それなのに訳す人たちは人称代名詞と同じ「それ」という訳語を当て、非人称代名詞 Es を人間レベルに引きずり落としてしまいます。

非人称代名詞は「それ」ではないのです。

本当はとてつもなく大きな力です。人間レベルの領域を超えているものなのに、「それ」と訳した時には目の前にある、目先の「あれ」、「それ」と同じものとして扱ってしまいます。

 唯物的と言えるかもしれません。

 

「それ」と言う訳語に出会うたびに、現代の日本は目先のものしか見ていないのかもしれないという思いがあります。

唯物的であり、大きな力を無視する無神論的そんな風にも見えます。

もっと大きな存在の力を知っていれば、非人称代名詞に間違っても「それ」なんて訳を当てることはできないと思うのです。大きな力、その力のお陰で生きています、という意識からもっと相応しい訳語が出て来るはずです。

日本人が、よくも悪くもと言って置きます、昔から持っていた「お陰さまで」、という意識は、自分より大きな力と一緒に生きているという意識の反映した表現です。もう今は無くなってしまったのでしょうか。

 

大きな力に囲まれて、それに守られて生きているという意識を是非とも復活させたいと思っています。

そうしたら目先のものに捕らわれないおおらかな生き方ができる様な気がするのです。

非人称代名詞はこのおおらかさの中にあるものです。

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