障がいと健常の境目

2012年7月13日

障がいを持った人たちへの一般社会の考え方が最近になって大きく変わってきています。

一昔前は、治療して治す、つまりどのセラピーがいいのか、どこの医者がいいか、病院は何処かということが、障がいを抱えたお子さんを持つ親御さんが真っ先に考えることでした。

障がいの原因にある、いわゆる病気を治して、そして健常児にする。完全にできないにしても健常児に近いものにする、という考えが主流でした。

 

ここに来て社会の方向性が変わって来ています。

「そのまま」、「そのままでいい」という考え方が生まれています。

障がいを持っている。その原因となる病気がある。そしてそれをとにかく治すというのが今までの考え方でした。

今は考えの中に入れないのです。そのままでいい、という風に考えられる風潮が生まれています。

もちろん幾つかの障がいの原因になっている具体的な病気、欠陥はあります。それは普通の病気と同じ様に考えます。

ダウン症のお子さんには呼吸器と循環系の弱いお子さんが多々見られます。

それはそれでしっかりと治療にあたらせますが、彼らの存在そのものは、そのまま受け入れようという考えです。

 

実は治療教育という現場、そしてそこで仕事を支えている考え方は、今に始まったわけではなく、基本的にはそう言うものがあった様に思います。

実際にはそう言う考え方で仕事に向かわない限り、仕事を続けることはできません。

その子どもを直してやろう、治療してよくしてやる、そんな考えで仕事をしていたら、すぐに疲れてしまいます。

子どもたちの人間であることに向かうわけです。

病気の方に目が行ってそれを治療するということになると本当に疲れます。

その疲れは、無理から来ます。何かがずれているのです。

そんなことが治療教育の目的ではないからです。

そのままでいいというのは怠惰から来ている様に見えるかもしれませんが、そうではありません。

そちらの方が、治療して治すという考えよりも、心的に、精神的に大きな力を必要とするものです。

 

今まで、治療教育という考え方の中にとどまっていた、「無境界的な考え方」が今一般社会にまで及んでいます。

今世界中に全人口の10パーセントもの、障がいを持って生きている方が存在しています。

この社会的な意識変革の広がりの背景には、人権擁護という立場からの考え方があります。

全ての人間は存在していること、それだけで意味があり、貴重なものだ。それだけで素晴らしいという考えです。

全くその通りだと私も思います。

存在していること、ここに新しい光が当てられている様な気がしています。

人間は、存在しているだけで素晴らしいものです。

 

ところが一方で腑に落ちない話しも耳にします。

血液検査で、ダウン症のお子さんがお腹に居ることが解り、希望次第で堕胎可能だということです。

かつては羊水検査で胎児が障がいを持っているかどうかを検査していました。

これは胎児に針が刺さったりして危険があるということで、最近は見られなくなりました。

その半面、血液検査が精密になり、その結果ダウン症のお子さんがお腹に居ることを突き止めることができるというのです。

突き止めるのです。犯罪人を突き止める様にです。

 

二つの状況を並べると、とても矛盾しています。

ダウン症のお子さんを人間存在として認めよう、という感性と、そんな子どもは生まれてほしくないから堕胎してしまうという感性です。

堕胎を決めざるを得ない人のことも理解できます。

実際にダウン症のお子さんと一緒に生きて行くのは、傍で見る何十倍も大変なことです。

その大仕事を引き受ける勇気がくじけてしまうのは、ある意味では当然だと言える様な気がするのです。

 

しかし、希望的には、これから障害児と健常児の境目が変わって行きます。

その中で、全てのお子さんを受け入れる親御さんたちがどんどん増えて行くことと思います。

社会的に受け入れる感性が育っていることで、障がいを持ったわが子が自分の運命を狂わす物と考えることはなくなる様な気がするのです。

却って、そう言うお子さんと一緒に生きることでしか得られない大きな宝ものに感謝する時代が来る様な気がするのです。

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