読む、それは立派な肉体的全身運動です、あるいは神は細部に宿る。

2019年7月27日

活字を読むのは結構体力を要するもので、本を読まなくなったと言う現象は現代人の体力低下も関係しているかもしれません。

最近は活字は音声に転換できるので、読まなくて済むような社会になっていてメールなども音声に転換して聞いている人がいるようです。一昔前は車社会の登場で歩かなくなるという社会現象についてあれこれと言われたものでした。歩かなくなって、フットワークがなくなり、足腰が弱くなって、そのしわ寄せが読書に及んできたと考えることもできます。

本が読まれなくなっているとは聞きますが、ドイツでは電車で長距離を動く時などに本を手にしている人が、スマフォ、iPadを覗き込んでいる人の間にまだまだいます。読書人口が減ったとはいっても、本を読む人は今でも買って読んでいるので、本を買ってるだけだった人が本を買わなくなったということもあるのではないのかなんて考えています。

 

読むというのは全身運動です。活字を認識するところで微細な運動が繰り返され、さらに活字を追いながら内的に音読?していますして居ます。読むとは体で読むので、理解も体を張っての仕事です。ただこれは目に見えないので、あまり知られていませんが、読む文化をもう一度見直そうと思います。

私がドイツに渡ったときは、今と違ってシュタイナーの文献は日本語に翻訳されていませんでしたから、ほかに残された道はなく、知りたい一心でガムシャラにドイツ語で読んでいました。

当時を思い返すとまるで亀の歩みで、施設での仕事が終わってから深夜まで、毎日、それこそ汗まみれでドイツ語と格闘していました。全身でシュタイナーをドイツ語で読んで、全身で受け止めていました。原生林に迷い込んだようなもので、道無き道に途方に暮れていました。私のシュタイナー理解の原点です。

原生林といったのは単なる比喩ではなく、実際にわからないことだらけなのです。私の周りにはいつも何本もの木が立ちはだかって、前にも行けず、右にも行けず、左にも行けずと、次に進むべき道が全く見えない状態です。

シュタイナーをドイツ語で読み始めた当時、わからないという状態との格闘でした。辞書も、文法書も役に立たず本能的な勘だけが頼りになる手段でした。そんな中で、「分かった」という手応えを感じた時、今分かったことと今まで生きてきた自分の人生とが火花を散らして交錯します。わかるという感触は今までの人生の総合的な結果なのです。そうしながシュタイナーの言葉、考えが、時間をかけ血や肉になっていったようです。もし当時日本語で勉強できる環境にいたら、私のシュタイナー理解は全く別のものになっていたはずです。

 

普段私たちが行っている読書も基本的にはわかるとわからないが交錯する中を突き進んでゆく行為です。読むというのは情報収拾のためにするものでもあるのでしょうが、そこに理解が加わると自らの人生との勝負と言えるものです。

読んでも読んでもますますわからなところに連れていかれることだってあるのです。

「分からない」から「分かった」に変わる瞬間を味わえるのが読書の醍醐味ですが、その読むが音声に転換されてしまうと、どうなるのでしょう。楽譜をコンピューターに取り込んで、コンピューターに演奏させたことがありますがその時の印象と重複するものがあるようです。その演奏を始めて聞いた時、なんの感動もないだけでなく、本をただ棒読みしているだけのような味気のないものでした。曲のイメージすら湧いてこない、血の気のない無機質なもので、ただ音譜が聞こえるようになっているだけで間違ってもそれを「演奏」などと呼んではいけないものでした。音声に転換されてしまえば、読むのに必要な手探りがなくなり、ましてや言語感覚など言う面倒臭い本能も必要なく、スイスイと乗り物に乗って原生林を通り過ぎてしまうのです。

私の講演録を電子図書として出版したいというお誘いが一度ありました。しかしライアー・ゼーレのスタッフと話し合った結果しないことにしました。電子図書になれば少なからずの人たちはきっと音声に転換してコンピューターに読んでもらうことになるのでしょう。しかし、それは便利を通り越して横着極まりないもので、そうなれば書かれている内容は音として聞こえている情報に変わり、文章のうねりや行間で伝えようとしているものは聞いている人の中に入って行かないことはわかりきっています。そう言う細かい配慮が文章には生きているのです。神は細部に宿ると言うことのようです。

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