言葉と音楽の違い、または思考と意志の違い

2020年12月30日

全ての芸術は音楽の状態に憧れる。こんなふうに音楽を捉えた人がいたんです。ドイツの哲学者ヘーゲルの言葉です。説得力のある言葉です。

若いときにこの言葉と出会ったのですが、その後も音楽のことを考えるときに座右の名のようにあったものです。音楽の本質が言い尽くされています。

 

音楽を英語ではmusic、ドイツ語ではMusikといいます。そもそもはギリシャ語のmousike、ムシケ、からきています。ムシケは音楽だけを表す言葉ではなく、詩の朗唱、舞踏、と言った時間芸術に関わるもの全般のことでした。そこから音楽が独立して行ったわけです。つまり音楽と言葉とはそもそもは同じ穴のムジナだったわけです。一体いつどのようにしてこの二つは別の道を歩き始めたのでしょう。

最近とは言ってももう一年以上も前のことですが、言葉と音楽の違いをしきりに考えていました。

一年間考えた末、今はこんな風に整理できています。言葉と音楽の違いは「意味を定義するか、しないかの違いだ」という具合です。

 

言葉の主な働きは定義することです。言葉によって意味は定義され具体的になりますから、意味を定義するために言葉は使われるのです。言葉にすることで意味が明瞭になるのです。言葉で定義して意味として生き始めるという流れです。

音楽と言葉の違いは、音楽では意味を定義できないところにあります。音楽を理解するということを考えてみると、音楽は理解という範囲にはないことがわかると思います。例えばベートーヴェンの交響曲五番ですが、運命と呼ばれています。それはあくまであだ名、ニックネームのようなもので、運命を感じさせると思った人がそう発言したものが広まって今日では交響曲第五番と呼ばず、運命と呼ばれているだけのことなのです。

ということは音楽は言葉より劣るものだと考えがちですが、そう言うことではないと思っています。定義づけをすることが優先する文化(これを知的文化と言っていいと思うのです)では言葉の方が音楽より上に位置すると言うことになるのでしょうが、音楽のように意味を定義づけようとしているプロセスにあるものを、定義付けできたものと同じに評価できる文化では、言葉も音楽も同等のものということになります。

 

シュタイナーは音楽は唯一意志からなる芸術と言う言い方をしています。つまり音楽の本質は意志だと言うことです。音楽を意志の観点から捉えてみると、意志の見えにくい部分が見えてきます。意志は言葉を使っても意味を定義しません。意志は定義づけを未来に預けて遠くを見ています。では意志にあっての言葉はなんなのかということになります。言葉が意志的に扱われるとイメージ的になります。つまりいつか意味になろうとしているという未来を志向したものなのです。

意味が形をなしているのが「定義された意味、言葉にされた意味、言葉となった意味」だとすれば、意志の働きの中で、意味は未だ形に至らないピクチャーのままでいるのです。定義は形となったものですから、定義されていない状態を生きているピクチャー、イメージが意志における言葉という事です。このような無形をどう生きたらいいのか不安にすらなりかねません。意志的な言葉は、もしかすると夢を見ているだけで、実生活の中に入ってこられるのでしょうか。

進学校の高校で先生をされていた方が、学習障害のお子さんの先生になられて、かつての進学校での教育との違いについてお話を伺ったことがあります。

進学校で教えている時は、百点が一番でだんだんと成績的に遜色が失われてゆくのですが、学習障害の子どもたちは零点から始まるので、以前と比べて少しでも良くなることが成長ということなので、評価の基準が全く逆を向いていて戸惑ったのだそうです。学習障害の世界では以前と比べてどれだけ能力が増したのかをみるのです。ところが進学校当時は出来て当たり前という見方が支配している世界ですから、満点からみてどれだけ劣っているかという減点方式で生徒を見ていたことに気づいたのだそうです。これは人生をポジティブにみるかネガティブにみるかの違いだと言っておられました。その先生は、学校が変わってから人生観が変わって、自分自身が生きてゆくのが楽になったということでした。

私はこの先生とお話ししている時、私たちは言葉的に生きているのだということに気づきました。何かを、しっかり、正確に定義することがともかくも大事で、そうすることで実生活が成り立つからです。しかしもしそういう状況だけを毎日生きているとしたら、精神的には窒息してしまうでしょう。人間生活が機能的な面だけを取り上げてうまく行っても、生活全体が枯渇してしまっては人生が台無しです。

 

形となった意味の部分だけを絶対視するのではなく、意味が形になろうとしている状態を認める余裕が必要なのです。この余裕が意志の本質と関係していると思っています。

教育を意志の問題として語るのであれば、何ができるのかを採点するのではなく、子どもがどのような成長をしているのかをみることになります。それをどのように特徴付けられるのかが先生の力量につながるのです。思考的教育に慣れている私たちには不安の材料しか見えないかもしれません。しかし子どもたちは確実に意味を見つけようと努力し始めるのです。

コメントをどうぞ