思考の限界

2021年2月1日

私は生来非常にお喋りで「よく考えてからものを言え」と子どもの頃はよく言われたものです。

大人がいうところは、「考えたから何かがわかる」というのが前提されているわけですが、考えることが分かることへの道だとは思えないのです。考えるということを盲目的に崇拝してしまえば考えこと以上のものは見えなくなってしまうかもしれませんが、考えるというのはせいぜい交通整理にしか過ぎないのではないか、今はそう思っています。交通整理の助けとして信号機が生み出され、今では道路を車で走る時皆んなが信号機に従って走ります。いや信号機に既にしっかり洗脳されていて信号を守っていれば交通事故に遭わないで済むという風に知らず知らずの歌に考えるようになっているのです。思考というのは非常に洗脳されやすい、単純なでもなのです。

デカルトの「我思うゆえに我あり」がことの始まりでしょう。「考えるから自分が存在していると言えるのだ」と言うことですが、随分簡単なことで自分が存在していることを決めてしまうものです。私と言うのは私が整理したようなものだと言うことです。整理して説明して、それが自分だと言うのですから身勝手もいいところです。ここに自己正当化の道が開けたように思います。私流には諸悪の根源です。

私は自分で説明して存在しているのかどうか決められるようなものではないはずです。この点は声を大にして言いたいところです。自分で決める以前に立派に存在しているのです。あるいは自分で決めただけが自分ではないのです。

ところでこの「決める」というところが気になります。決めている自分はどこからきたのでしょうか。考えてもその「決める自分がどこからきたのか」は答えられません。

そこが思考の限界で、自分という存在は思考の一つも二つも上の次元のものかもしれないのです。私という存在は私が説明できるものではないと言えるように思えてならないのです。説明して納得するのは勝手ですが、それを自分としてしまうのは自分に対して失礼ではないかと言う気がします。そもそも説明という手段が非常に曖昧なものです。説明には大抵方法があります。そして方法はほとんどの場合何かを前提にしています。もちろんその前提は人間が作り出したものです。無前提に何かを説明することはできないのです。無前提の前に、思考の産物である科学は全くなす術がないのです。すべての科学はある前提の上に成り立っているからです。

説明の方法というのは他でもない人間が考え出したものです。ということは説明できる範囲というのは限られていると言わざるを得ません。その中に人間存在が入るとは到底思えないのです。

では私たちの存在、生きているという手応えはどこに求めたらいいのでしょうか。昔講演会の時に、悪戯(いたずら)に、一列目に座っている人に、「生きていますか」と唐突な質問をしたのです。一人一人聞いたのですが答えは全部「はい」でした。何故分かるのですかと続けると「息をしているから」「今目の前に仲さんが居ることが分かるから」「つねると痛いから」というのが返事でした。

私たちは生きているということを意識しながら生きてはいないのです。なんと無責任なというのではなく、人間はそんな風にはできていないのです。朝から晩まで哲学の本を読んでいられないように、朝から晩まで宗教の聖典を丸暗記するために読み続けることができないように、生きているかどうかなんて意識していないのです。

意識は思考ではありません。意識するとは思考するとは違います。説明しないでもいいのです。説明以前ではなく、説明を超えているのです。それなのに生きているのかどうかについて意識すらしていないのです。人間は自分が存在しているのかどうか、生きているのかどうかに、本当のことをいうと興味がないのです。生きていようが死んでいようがどうでもいいのです。どちらも環境が違うだけで存在だからです。存在が永遠だと知っているからではないかそんな気がします。同じように、今という凝縮した永遠に全てが預けられているのではないか、そんな気がするのです。過去とか未来とかいうのは、思考の産物で説明の方法として編み出されたものなので、そこに存在はいないということのようです。

 

 

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