顔と風景

2021年2月1日

思春期の頃、人間の顔に興味を持ったことがありました。私の祖父の写真を見ていた時のことです、顔が突然風景のように見えたのです。「面白い」と思わず呟いたことを思い出します。何故顔が風景に見えたのかはわかりません。祖父の顔の場合、ごく自然に顔が風景に見えたのですが、ほとんどの顔は風景にならないままでした。

ある時、もうずいぶん昔ですが、渋谷のスクランブル交差点を横断していた時、信号が青になって人が波のようにこちらに向かってきた時にも、顔が風景に見えたことがありました。一つ一つの顔が風景になったのではなく、顔をもった集団が作り出す、都会に浮かぶ不思議な風景でした。ところがウォークマンが登場し、携帯で歩きながら話をする時代になると、スクランブル交差点にも変化があり、向かってくる人の波はもう風景ではなくなっていました。ただの塊がこっちに向かってくるだけでした。

ドイツ語では名詞が単数形と複数形とで表記が違ってきます。日本語のようなポエティックな言葉は単数・複数と分けませんから、ピンと来ないかもしれませんが、一個か複数かはドイツ語を始めヨーロッパ語の中では極めて厳密に使い分けられるものなのです。複数形しかない言葉もあります。英語のpeople(ドイツ語ではLeute)は複数形しかない言葉です。

さてドイツ語の顔、Gesicht、ゲジィヒト、は複数形が二つあります。いつも使うのはGesichterで、これだと複数の顔なのですが、もう一つのGesichteの方はガラッと変わってしまい、幻、幻覚といった現実の顔とは別の異次元の顔という意味になります。ドイツ人は現実の顔の奥に、顔が複数になると非現実的な複数の顔を見ているということなのでしょうか。ドイツ幻想文学の源はこうしたところからきていると言えるかもしれません。

 

 

音楽を聴いている時も風景はよく登場します。だからといってベートーヴェンの田園シンフォニーとかスメタナのモルダウ、メンデルスゾーンのスコットランドのように風景を描写したと言われている音楽には却って風景は見えてこないものなのです。むしろ純粋に音楽として美しい曲の時に特上の風景が現れたりします。風景を音で描写しようと頭で考えて作った音楽は、知性の産物なので芸術的想像性が乏しくなっているです。音楽を通して見えてくる風景は、風景と言っても特にどこの風景というのではなく漠然と風景なのですが、私には紛いもなく風景なのです。顔と風景この風景が音楽に近いところにいるというのが興味深いです。

以前岩手の海岸を友人と歩いていた時のことです。リアス式の美しい海岸の多くは、残念ながら先の3.11の東北大震災の時の津波で跡形もなく失われてしまいました。そこもその一つです。ぼんやりと風景を眺めている時、ここが私の原風景ですと言われたのです。その時に受けたショックは今でも忘れることができません。私の原風景というのは池袋の家の前の通りです。そこでよく遊びました。当時はまだ車の行き来がほとんどない頃で、コンクリート造りのごみ箱というのが通りに置いてあって、それを邪魔だと思う人がいなかった時代です。お向かいさんの家の門の前が広くとってあって、そこに近所の子どもたちが集まっては、メンコ、ビー玉、道路はアスファルトでしたから蝋石で絵を書いたり、あのごみ箱から竹馬に乗ったり、キャッチボールをしたり、女の子たちはゴム段などをしていました。本当はとても狭い場所なのに、当時はそれで十分な広さだったのです。そんなところが私の原風景と言ってもいいようなものです。

ところが私にはもう一つ原風景があります。子どもの頃からぼんやりしている時には必ず幾重にも連なる山並みの広大な風景を夢想していたのです。それは子どもの自分でも不思議なくらい鮮明な風景でした。でも誰にも話さずに大人になりました。大抵は同じような風景だったことも今思えば不思議です。今はその風景が直接夢想されることはありませんが、思い出すとあんな風景だったかなという感じです。それは岩手のあの海岸の風景が友人の原風景だったように、案外、池袋の家の前の通りもですが、私の原風景になっているのかもしれません。

 

何故ここで風景のことを書いているのかというと、風景は、特に心に見えてくる風景が私を幸せにするからです。風景の見えたおじいさんの顔は大好きなおじいさんの顔でした。

私は子どもの頃から、いつも、四六時中、休むことなく喋っていましたが、この風景が心の中に見えている時だけは無口でした。むしろ言葉が邪魔で、只管(ひたすら)無言の中に逃げ込んでいたようです。風景というのは石川啄木の歌「故郷の山に向かいて言うことなし、故郷の山はありがたきかな」が示すように無言を強いる力があります。深い信頼の情が人間と風景を結びつけるのでしょうか。「知るものは語らず」という老子の言葉も重いです。無言の、風景のような長老が見えてきます。

 

コメントをどうぞ