才能という宝 自我のこと

2012年9月12日

自我という言葉はもともと哲学用語ですから、日常生活からは随分浮いてしまいます。

「あなたの自我はどう感じていますか」

普通の会話ではなかなか言えないです。

 

では日常生活と関係が無かと言うとそんなことはありません。

気付かないところで私たちを支えています。

この自我を今日は才能という言葉で置き換えてみたいのです。

 

才能は、お世辞を言うわけではありませんが、みんな持っています。

後世が天才と認める様な飛び抜けた才能は別ものです。

際立った才能は非常に一面的なものです。簡単に言うと病的なところがあります。

昔、私が学生の頃に歴史的天才たちを心理テストの様なもので調べることが流行しました。

結果は、みんな相当重い病気というものだったと記憶しています。

そこまで悪者扱いする必要はないと思いますが、天才として生きるのは苦しいものです。

 

普通の才能で十分です。そしてその普通の才能はみんなが持っています。

ところが「あなたの才能は」と聞かれてすぐに答えられる人というのは意外とすくないものです。

すぐ答えられる人は自信過剰の気があるかもしれません。

答えられないからと言って才能がないのかと言うとそんなことはありません。答えられなくても才能はあるのです。

 

日本的な謙遜というのもそこで顔を出してくるのでしょうが、その謙遜を差し引いても、才能があるのに、自分の才能については、よく解っていないものなのです。

時たま、天才とまでは行かないまでも秀でたものを持っていると、周囲が放って置きませんから、「それは自分の才能かもしれない」と思う様になることはありますが、それでも自分の才能というのは見分けにくいものです。

他の人の才能についてはいろいろと言えるのですが、こと自分の才能となるとわからないのです。

 

自分が育った町が大きな町なのか小さな町なのかは、その町から一歩も外に出たことのない人にはわからないものです。大体の人がそんなことは考えたこともないのです。

成人して、外に出て他の町を見て、そこで初めて大きいとか小さいがわかるのです。

それとよく似ていて人間は自分の才能の中に居るので、自分の才能のことはよくわからないのです。

 

才能と言うとジャンルに分けてしまいます。音楽の才能、書道の才能、スポーツの才能、文章の才能という具合にです。

しかしそれは職業的な意味合いが強いわけ方です。

個人としての才能を見ると、数えきれないほどの才能があります。人の数だけあるのです。

それをどう生かすかというのが人生の醍醐味です。

自分が持っている才能をフルに活用できたら、いい人生だったと言って死ねそうです。

 

教育の話し合いをしている時によく「子どもの才能を伸ばす」というこがテーマになります。

子どもの中に隠れている才能を先生が見抜いて伸ばしてあげるという考えです。

教育の本質を突いています。

先生になろうと考えたことのある人の心に一度は去来した思いでしょう。

逆に実際に先生になってみると、それがなんと難しいことかを実感していらっしゃると思いまます。

実際、とても難しいことです。

 

子どもを外から判断するのではなく、子どもの中に入って行かなければならないからです。

外から見て「あの子はこんな才能がある、それを伸ばしてあげよう」というところから、もっと深くその子どもの中に入って行かなければならないからです。

理想的なことを言えば、先生というのは、芝居で役者が役の中にのめり込んで、その役をまるで自分の様に生きるくらいの勢いが必要なのです。

 

潜在的には子どもは自分の才能に気付いているといっていいかもしれません。

それは「好き」という言い方になっています。

好きこそ物の上手なり、という通りで好きなものを見つけてあげ、そして好きというだけでなく、その中に自信を植え付けてあげるのです。

 

そこで難しいのは褒めてあげるということです。

人を褒めるというのは難しいものです。特にその人を目の前にして褒めるというのがです。

どこがころあいかを見極めなければ失敗します。

褒めすぎたら嫌味になります。

でも褒めなければならないのです。

 

必要なのはユーモアと真摯さだと思っています。

ユーモアは心を解放します。

真摯さは、「この人は本当に自分に向き合っているのだ」という喜びと、尊敬の念を心に呼び起こします。

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