自分は幻想

2021年2月22日

私たちが自分と言っているものは幻想だろうと思っていました。

仏教の無我という考えを知った時、そういうふうに言ってもいいのかと愕然としたことを覚えています。そしてそれまで自分と思ってきたものとどう付き合えばいいのか分からなくなってしまいました。この問題は誰にも打ち明けられずに成人してしまいました。もちろん今でもわかっていません。

 

私の個人雑誌、ピアニッシモの最新号で、日本語の私という言葉がなぜたくさん存在するのかを扱いました。

ヨーロッパの言葉にはどの言葉にも私を指す言葉が一つしかないので、ドイツでドイツ語で主に生活していると、やはり自分を色々と使い分けたくなることがあります。

逆にヨーロッパ人というのは自分を一つの言葉でしか言い表せないので、実は不自由しているのではないかと勘繰ってみたことがあるのですが、それ以外の可能性を考えたことがない人が99.999パーセントですから、想像だにできない世界の様ですが、万に一人ぐらい、そいういことがあるんですねと、感じてくれる人がいます。

最近もう一つ整理しておきたいと思っているのは、漢字を使う国の中でも日本語にしかみられない「訓読み」というすご技です。いったいこれは誰がどの様にして考案した技なのか気になるのです。

もちろん一人の人間の仕業ではないことぐらい分っていますが、日本語の言語霊なるものがどこかにいるのならぜひ会って聞いてみたいことです。

 

先日物理学者の保江邦夫さんの動画を見ているときに、中澤さんというゲストの方が、金田一さんから聞いた訓読みに関する話をされていました。金田一さんによると「生」という字は158種類の読み方があるというのです。信じ難い数です。みなさんぜひご自分で探してみてください。私は10ほどしか思い当たりません。余談になりますが、「生」の反対の「死」という字は「し」としか読まないということです。

「生」の例は極端だとしても、訓読みの多様さに皆さんも気付いていらっしゃると思います。一つの文字をいくつもの訓読みにするのは世界七不思議を超える不思議なことです。西洋人はもちろん漢字の国、中国人にも絶対に理解できないことです。

大好きな泉鏡花の小説は全部ルビが振ってあります。漢字を普通に使うのですが、その多くが当て字というのか、独自の訓読みをあてがいます。ルビなしには読めないので、ルビが振ってあるのです。泉鏡花の小説は音読すると何倍も面白く、しかも言葉が美しいことに驚かされます。3.11の時に帰化され有名になった、アメリカ生まれの日本文学研究家のドナルド・キーンさんは、いくつもの翻訳をされている方ですが、「泉鏡花だけは翻訳できません」と言います。訓読みの妙なのかもしれません。

この訓読みを当たり前とする文化を、訓読みを全く知らない文化とどのように比べたらいいのか、私はお手上げです。今日までまだ研究がされていない分野ですので、どなたか研究される方が出てくれるとい嬉しいのですが・・。

 

自分をいくつもの言葉で使い分ける日本語と、訓読みを多彩に散らべている日本語とは、もしかすると共通の源から発しているのかもしれないと考えることがあります。あくまでも私の独断ですが、日本語は、自分というのは幻想だと知っているのかもしれません。無我が本当だと知っていて、自分と感じられるのは現象だと分かりきって、いくつもの言葉を私にあてがって遊んでいるのです。一つしかないヨーロッパの言語の私は思い込みで、それに沿って納得できる私を作り上げます。それしか道がないのです。そして「自分を正当化することが最大の目的」というスタンスで生きています。

 

この二つの文化をつなぐ架け橋は、いつの日かできるものなのでしょうか。

 

 

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