演奏の秘儀、ヒラリー・ハーンについて

2021年3月3日

ヒラリー・ハーンについては何度か書いていますが、久しぶりに聞いて気づいたことかあるので再度書きます。

初めてヒラリー・ハーンの演奏を聴いたときに衝撃的だったのは、彼女の演奏から考えて作っている音が聞こえなかったことでした。どういうことかというと、効果を狙った音で音楽を作ってはいない、表現を作っている音がないということです。大抵の演奏は、いやほとんどの演奏が、演奏者の考えたことを演奏しているものです。解釈という名のもとに行われている自己実現です。

演奏は何かをイメージしなければできないのですが、音楽をイメージするか、演奏する自分をイメージするかに分かれると思います。前者はいい音楽になりますが、後者は自己主張の代用品です。

 

何も考えないで演奏するというのは、まず楽器を相当弾けることが条件です。上手に弾くことと、考えずに弾くことを分けなければなりません。考えて上手に弾こうとすると音楽を解釈してしまいます。考えないでどうやって弾くのかと言われそうですが、芸術という分野では考えないで制作するということがしばしば起こるのです。芸術の特性で、他ではなかなか得られないものです。ものづくりの大切さはここにもあります。無になれるのです。

 

ヒラリー・ハーンの演奏を初めて聴いた時、それはバッハのシャコンヌでした。彼女は考えていないかもしれない、そう感じました。音楽が生々しく飛び込んできたからです。とても珍しい感触でした。この曲の大抵の演奏は13分前後ですが、彼女は17分かけて弾いていました。そんなの演奏時間の問題で音楽性には関係ないと考える人もいるでしょう。しかしテンポは重要です。個人的には、演奏ミスは気になりませんが、テンポの取り方が私の感性と合わないとその演奏は聞けません。彼女のゆっくりな演奏は、音楽が流れるに任せて演奏されている感じで、作為的ではなかったのです。退屈になるかと思いきや、よけいな注釈、解釈が入ってこない分、音楽が純粋で、勝手に輝きだし、とても多彩なものになっていました。

なぜそう言えたのかは簡単です。考えて弾くと音楽がその人の個性で染まってしまいます。実は体(てい)のいい癖に過ぎないものです。自己主張です。私はそんな音楽は聞きたくなんかないのです。聞きたいのは、演奏されている音楽そのものです。骨格と言ってもいいと思います。私は骨相と言っています。人間の顔は表情付けで変わります。またお化粧をしても変わります。それにごまかされることもあります。ところが骨相から見るとその人の人となりがよくわかります。表情に囚われると、誤魔化されることがありますが、骨相は嘘をつかないものです。表情づけに囚われている演奏との一番の違いは、音楽が静かになります。音量のことではなく、音のクウォリティーが高くなるということです。音楽の骨格が聞こえるような演奏になると、表情づけという今日の演奏の中心になっているものがないので、一般受けはしないものになります。

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