光に憧れた西洋音楽の中のシューベルトの温もり

2021年5月11日

西洋音楽の求めたのは光だと思います。わたしはグレゴリオ聖歌の中にも、ビザンチンの音楽にも光を感じています。そして現代音楽と言われるものに至るまで、光の恩恵で音楽が作られていたようです。

車を運転していたある日のことです。そのころは聞く音楽といえばシューベルトの音楽ばかりでした。たまたま車でラジオの音楽番組を聞いていて、他の作曲家の音楽が耳に入ってきた時のことです。その曲はよく知っている曲でしたが、シューベルトというフィルターを通すと、今まで聴き慣れていたものとは何かが違うのです。その時は何が違うのかなんて言葉にできませんでしたが、シューベルトは根本的に何かが違うと思い始めたきっかけでした。

今ははっきり言えます。

シューベルトは温かみが音楽の中心にあるということです。彼が意識して温かい音楽を作ろうとしたなどと言いたいわけではないのです。そういう意図的なものは、非常に表面的なことなので、とってつけたコーティングのメッキはすぐに禿げてしまいます。シューベルトという存在が温もりそのものなのです。そこから音楽が立ち上がってくるので、音楽が温かいのです。

西洋の哲学にも一つの特徴があります。それは東洋の哲学と違って、明晰さを求めました。クリアーであることです。それこそが光からのものなのではないかと思います。西洋の本質は光、つまり明晰さですから、その土壌に生まれた音楽が光に憧れるのは当然といえば当然のことです。

明晰さ、クリアーさというのは、冷たさとくっつきやすいものです。頭脳明晰な人は合理的ですが、往々にして冷たい人です。わたしの狭い個人的な経験だけの戯言でしょうか。

ある時友人を尋ねたら、部屋には必要なもの以外何もないような、わたし的には殺風景な部屋でびっくりしたことがあります。頭脳明晰、成績優秀で小学校から大学まで通した秀才中の秀才でした。彼はとてもクリアーにものを考えるのが得意で、現在はそれを武器に仕事をしていて若手の成功者でした。お金がないからものが買えなくて殺風景な部屋に住んでいるのではなく、無駄を省いてた結果殺風景なのです。

わたしはその空間に長くいるとだんだん体が冷えてくるような感じがして、早く出たいと思っていました。なんとなく落ち着かなくなったのです。後日彼に居心地が悪かったことを言っても理解してもらえませんでした。

 

西洋の友人の中にも温もりのある人がいないわけではありません。優しいお人好しもいます。根っから親切で人の面倒見がよく、いつも二つ返事で色々なことを手伝ってくれる人もいます。

しかしどちらかといえば例外的な存在です。

シューベルトの音楽を温もりなんだと知った時から、西洋のそういう友達の中にも、シューベルトのような温もりがあるのだと気がついたのです。その人たちが頭脳明晰の反対だというのではありません。頭のいい人もいます。クリアーの反対だというのでもないのですが、懐かしい温かみが西洋なのに感じられるのです。彼らは、社会的にはお人好しをうまく使われています。二つ返事が仇になっていたりします。彼らは、全部ではないですが、生きにくそうに生きています。西洋の光が生んだ合理性、明晰さに溶け込めないからです。

シューベルトというのはお人好しの友人たちのように、西洋音楽の光から生まれた冷たさの中で、一人孤立しています。もしかしたら唯一温かみで音楽を作った人なのではないのでしょうか。

彼の音楽の中に流れている温かみ、温もりはわたしに西洋人の中の東洋人というイメージをもたらします。彼の中には東洋が生きているのです。わたしが四十年以上西洋に住んで、そこで持て余してしまう東洋的なものようです。シューベルトは一人でそれを成し遂げてしまいました。

わたしは何年ドイツにいても日本人です。いつまでも日本人のままです。西洋に何年いても東洋人なのです。今はそれが誇りに思われます。

「温もりの哲学」ができたらいいと願っています。いや他人事ではなく、いつの日かそんな哲学が書きたいものです。

コメントをどうぞ