自画像

2021年12月10日

もし私に絵を描く才能があったら、果たして自画像なるものを描くだろうか。
絵心のある人にしてみれば、自画像というものは一度は描いてみたいものなのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていました。

スイスで勉強しているときに、今から四十年も前の話です、一週間、粘土の時間があって、そこで赤ちゃんの顔、思春期の頃の顔、成人した時の顔と作ったことがありました。赤ちゃんの顔を作った時に自分の赤ちゃんの時のような顔を作ったのには我ながらびっくりしてしまいました。他の顔は色々と工夫をして、思春期を表現しようなどという下心が働いたせいか、自分とは程遠い物でした。成人もだいたいそんな感じでした。ただ自分では自分に似ているとは思わなかったのですが、一緒に作っていた仲間達には、私の面影がたっぷりあったようです。自分の顔を鏡に写して粘度をこねているのではないので、自分によく似たものが出来てしまうのがとても不思議でした。

文学の世界に目を転じると、私小説は自画像と関係するのかどうか。極論すれば、何を描いても自分を描いてしまうような気がします。

音楽で自分を出そうなんて考えて作曲したら、どんな音楽になるのでしょう。こうは言ったものの、考えただけでも気持ち悪くなります。ただ、例えばモーツァルトの音楽を聴くとします。すぐに「これはモーツァルトだ」と分かります。ベートーヴェンもハイドンもバッハもマーラーもショパンもだいたい察しがつきます。彼らの誰一人として、彼らの作品を作るときに、自分を作曲しようと意図していたものではないと思います。
ところが聞いてみると、丸々自分になってしまうのです。

私の個人的な感想かもしれませんが、現代人というのは、必要以上に自意識で固められているような気がします。だからと言って自分がよく見えているわけではないのです。
自分というのは、自分であろうなんて意識しない時に一番出てくるものなので、現代ほど、却って自分から離れている時代はないのかもしれません。自意識に凝り固まっているが故に却って自分から遠く離れてしまっているのかもしれません。そのために個性個性という宣伝文句が持て囃されるのでしょう。本当の個性が欠けているのです。

もし私に絵心があったら、時間をかけて自分の顔と付き合ってみるのも面白い退屈凌ぎになるかもしれません。
もしかしたら絵心なんてない方が味のあるものが描けるかもしれません。似てなくてもいいわけです。絵全体が否応なく自分になってしまうでしょうから。

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