センチメンタルと唯物的なこと

2021年11月20日

このセンチメンタルと言うのは、どう言う感情表現なのか、私にはよくわからない世界のものです。
おセンチになっちゃって、と言いながら女性が涙しているのをみた記憶はあります。
このおセンチというのがセンチメンタルのことで、涙もろいという意味にとってもあながち間違いではないのかもしれませんが、それだけではない様な気がします。

昔はセンチメンタルと憂鬱、メランコリーとが区別できませんでした。お互いに混ざり合っているものだといまだにはっきりと区別できないところがあるのですが、憂鬱、メランコリーの方が心の深いところに根ざしているものの様です。センチメンタルというのは、ある程度気分のもので、雰囲気に流されたたもので感情的なものとは言えないと思っています。

突然話が飛躍しますが、唯物的という時、「世界がただ物質からだけでできているという考え」と言いますが、この言い方は私を納得させてはくれないものです。そこで何が唯物的なのかと色々と考えたのですが、唯物的な世界観から実はたくさんの落し子が生まれていることに気づいだのです。センチメンタルもその一つです。例えばセンチメンタルに浸っているときに何かを決断しなければならなくなったとしたら、非常に狭い一面的な考え方から決めることになると思います。そして大抵後で後悔しています。
人生をセンチメンタルにみたら全く味気のないものです。その時に思いついたもので判断するからです。深く考えてなんかいないのです。これがセンチメンタルです。考えてなくて、状況に流されているだけなのです。ところが状況というのは時に大きな社会的な流れとなって現れることがあるので、その時は実際はセンチメンタルで皮相的なのに、社会がそういう流れにあるので、まともなことを言っている様に勘違いしてしまうのです。こういうことを煽っているマスメディアも立派な唯物的世界観からの落とし子なのです。それを支えているジャーナリズも同じです。

日本では食事をいただくときに「いただきます」と言いますが、これは食べ物となった生き物の命を「いただきます」ということです。お肉、お魚といった動物の命だけではなく、植物の命もいただくと考えていることは忘れられがちですが、私たちは植物の命も食べているので、「いただきます」という時は全ての命に対して感謝しているということです。
最近読んだいくつかの本の中に、植物への新しい理解が示されたものがありました。簡単にいうと植物にも知性があり、感情があるという見解です。今までは植物は動物とは違い、感受性はおろか感情的なものはないとされていましたから、動物は食べないけれど、植物は食べている人がいました。動物の殺される時の恐怖感がが体に入ってくるからダメだというのですが、最近の植物研究の成果に照らし合わせると、植物も同様に命を取られる時に何らかの反応をしているのですから、厳密に言えば植物を食することも避けなければならなくなってしまいます。となるとそういう考えに従うとそのうち何も食べるものがなくなってしまいます。
動物がかわいそうだ、特に鯨は人間に近いものなので、捕鯨して食べるなんてもっての外だと主張するのは、私にはセンチメンタルのような気がしてならなのです。動物を食べない、鯨を食べない、魚を食べないというセンチメンタルの延長に植物も食べないというのが本当は来るべきなのです。いやすぐそこまできている発想だと思います。そしてこのセンチメンタルの成れの果ては何も食べ物がなくなってしまうといういう悲惨な結末だと思うのです。唯物論というのはこのように非常に一面的なことを強調し、誇張するという特徴があります。
唯物的考えから生まれた政治的な思想もよく似ていて、非常に一面的で、その一面をやたらと強調しプロパガンダを使って広めます。
基本的には唯物的な考えというのは判断を狭めます。あるときは一面的にさえなります。判断するときの基準も非常に狭い考えによっています。時には雰囲気に流されているだけのこともあります。
私はとても怖い考え方だと思っているのですが、歴史的にはもうずいぶんの間唯物的な考えが支配しているので、現代人にはみんな当たり前に見えてしまうので、違和感がなくなっていますが、危険は危険ですから、いち早くここから抜け出さなければならないと考えます。
ただそのためにどうしたらいいのか、あまりにとてつもないことなので、正直途方に暮れています。

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