ピンポン球のこと

2022年4月2日

直感のことは何度も書いているのですが、その理由は直感的でいる時人間が霊的な存在であることを実感できるからです。

これは人間としての健全さを保つためにとても大事だと考えるのです。

 

考えるという作業で物事を進めると、合理的だったり、効率がいいというところに導かれてしまいます。それ自体は悪いことではないのですが、それだけだと物質としての人間が中心になってしまい、干からびてしまいます。私には今の時代は干からびた時代に映ります。

 

直感を磨くためにはどうしたらいいのかというと、純粋に遊ぶことです。目的のない遊びと言えるでしょう。逆に、直感を弱めるのは真面目に一生懸命になってしまうことかもしれません。がむしゃらに、無気になるということです。

ある高名なイギリスの物理学者が親しい気のおけない友人とピンポンをしている時にいい思いつきが降りてくると言っているのを聞いたことがあります。純粋なピンポンですから、勝ち負けなどない遊びなので点数などは数えずに、ただ無心に来た球を打ち返すだけのピンポンです。これが本来のピンポンだと私は思うのですが、そこに点数を数えることが入り込んで来てしまったのです。点数の数え方は、来た球が打てなかったら相手の得点になるというものですから、相手が打てないような球を打つことがピンポンの中に入ってきて、いつしかそれがピンポンになってしまいました。もちろんそこから点数を競って勝ち負けが生まれます。今はこうした形が主流ですが、本来のピンポンからはずいぶん遠ざかってしまいました。

点数を数えるにしても相手が打てないような球を返したらその人に減点の点数が入るというのなら、本来の姿からあまりずれなかったのでしょうが、その逆の流れが本流になってしまったのです。その流れを作ったものが私たちの社会を作っているものと同じだと考えるのは飛躍しすぎでしょうか。

私たちの慣れ親しんでいる思考には時としてこうした流れが紛れ込んでいるので気をつけないとなりません。それだけでなく、本来のピンポンのように、ピンポン球が無邪気に卓球台の上を行ったり来たりしているように考えることがとても難しくなってしまったのです。

 

人間が霊的存在であると実感するためにスピリチュアルである必要はないと考えています。ごく普通のことの中に霊的なことは潜んでいるからです。今お話ししたピンポン球の動きは非常に霊的なものだと思います。

実は遊びが霊的な自分を教えてくれているのです。

ただ遊びもずいぶん毒されてしまっているので、あえて純粋な遊びと言わなければならなくなっています。

遊びの醍醐味は没頭だとも言えます。時間を忘れて没頭できることを探せばいいのです。そのためにお金をかけるかかけないかは本質的なことではないのでどちらでもいいのです。とにかく没頭が大事です。

物質的な生き方にはいつも時間の制約が付き纏っています。現代は「時は金なり」というところまで来てしまいました。時間に追われたストレスも然りです。時間を忘れたら、お金にはならないのですから、没頭は非物質的とも言えるかもしれません。当然そんなことはお金にもならない無駄なことだということになります。

 

没頭とピンポンの球の動きは一見矛盾しているように見えるかもしれませんが、物質的思考習慣を超えればよく似たものに見えてくるものです。どたらにも直感は降りて来やすいところなのです。

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