翻訳は、いい加減のほうがいいのでは

2022年5月21日

言葉は理性の産物というより、大半は習慣の産物ではないかと思っています。翻訳をしているとそのことを強く感じます。民族の習慣と個人の言語習慣が重なり合うものを、他の言葉に移すということですから、極めて難儀なことです。

気取って言えば習慣ですが、所詮は癖です。無くて七癖です。ということはドイツ語の持つ民族的な癖と個人の癖を掛け合わせるのでも少なくとも四十九の癖が渦巻いているということになります。それを日本語になおすとなると、日本語にも日本語と個人の癖を掛け合わせたものが四十九はあるので、翻訳というのは、計算上はほとんど成立しない不可能なものと言えそうです。

ところが現実には成立しているのです。翻訳はほとんど奇跡に近いものです。異口同音に「日本語になっていないので読みにくい」という言葉を横目にしながらでも愛読者がいるのです。もしかしたらかえって翻訳調の方が、外国のものを読んでいるという実感があっていいのかもしれません。

 

翻訳の世界と少し付き合っていると、人間の言語能力は素晴らしいと思わずにはいられません。翻訳者の魔法にかかっているのか、読み手の超能力的な読書力によるのか、なんとも言い難いですが、とにかく翻訳は読まれているのです。そして読んだ人はそこから何かを得ているのです。

余談ですが、川端康成がノーベル賞を取った時三島由紀夫と伊藤整と三人で鎌倉の自宅の庭先で対談をしています。そこで川端が「今度のノーベル賞の半分は翻訳者に与えられてもいいのではないか」ということをポロッと言っているのですが、日本語を読める専攻委員は一人もいないので、みんな英語で読んでいたわけですから、英語以外の言葉で書かれた作品にノーベル賞が与えられる時には、翻訳者にもお裾分けを与えたほうがいいと川端康成は思っていた様です。

 

翻訳が伝わるのは書き言葉だからということは忘れてはいけません。日常生活で使われている口語の翻訳は一層困難だということはあまり知られていない様です。

どの様な文章でも翻訳するような言葉は選ばれた言葉です。翻訳するために時間が取れます。言葉を選ぶ時間があります。ところが日常生活で使われる言葉は、テンポが速い上に、話題が知らないうちに変わっていたり、省略した言い方が主流ですから、状況を瞬時に把握しなければならないので、「時間をかけて冷静に」なんて呑気なことは言えない世界です。特に日常の会話ではドイツ語の癖としゃべり手の癖が丸出しですから、先ほど数字て見た以上に、お互いの理解はほとんど不可能ということになりそうです。

翻訳の場合は少しずれても読み手が冷静に読んでくれれば、そこでの間違いは補正されていたりするものですが、日常会話は大変なスピードですから、その瞬間にわからなければならず、翻訳の時のように辞書をひいてなんてことは通用しません。会議などの同時通訳も同じでまさに真剣勝負の様なものです。ちなみに同時通訳は1時間を三人で交代して行います。二十分やったら四十分休んでからまた通訳します。そのくらい神経を使ってやっているのです。

 

いま翻訳を少しやっていて、できるだけ日本語で読みやすい言葉でと思いながらやっていますが、ふと立ち止まって、先ほどのようなことを考えると、何とか意味が伝わっていれは、そのほうが翻訳らしくていいのではないかと思ったりするのです。特に日本は西洋文化を崇めていますから、わかりにくい翻訳調の方がありがたかったりするのかもしれません。

 

そんなこんなで最近はいい翻訳なんてどうでもいい様な気がしてくることがあります。直訳的な読みにくい翻訳でも日本語になっていれば、なんとか読み手の読解力で読み砕いてくれるものです。訳す方も読む方もたっぷり時間があるのです。

日常会話を真剣で勝負している様なものすれば、翻訳は竹光で立ち会っている様なところがあるのかもしれません。翻訳者と読み手みと両方で頑張ればとりあえずはいい作品が出来上がるものです。

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