いつも何かを考えている

2022年9月14日

「人間は考える葦」。フランスの思想家、ジャンジャック・ルソーは、人間というのは水辺の葦のよう風に吹かれて揺れ動いている頼りない存在に見えるが、考えるという偉大な能力を持っている存在と考えたのでしょう。考えるということを賛美している言葉です。

私自身を見ても確かに考える存在で(大したことは考えていませんが)、四六時中、何だかんだと考えていているようです。実際に人間を脳波で調べると、ぼんやりしている時でも、何かを考えていることが明らかにされています。

昨今は、考えるということが、コンピューターの出現でその意味合いがずいぶんと変わってきていますから、「コンピュータも自分で考えられるのか」といった類のことの方に興味が移行しているのではないかと思います。ただ、たとえコンピューターの分布図が広がっても、「考えるとは何か」に答えるのは途轍もなく難解なもので、日常生活から離れた、形而上的な世界なので、哲学とか論理学とか学問として向かい合うものとなっていますが、そこでは往々にして硬直したものになってしまうような気がします。しかも深い迷路が待ち構えていますから、そこに迷い込んでしまうもので、不幸な結末で生涯を閉じる哲学者も多いのです。コンピューターはこの危険性がない思考生活を営んでいると言ってもいいのかもしれません。今のところ人間からの問いに従順に答えることで目一杯なのかもしれません。

 

考がえるというのはそもそもは頭のいい人の得意技ということになっています。その頭がいいというのか、知的傾向にある人は勉強好きで、成績の良い生徒だったはずです。一方体を動かすのが好きな人は思考型人間ではないようです。

頭のいい人は頭の中で運動しているので、体全体を使った運動が苦手なのかもしれません。もちろん両方得意という例外も、両方とも苦手という例外も存在します。

体を動かしている時は、私の経験から、考えていないのだというふうに結論して見ようと思います。逆に頭で考えている時には体はコントロールできないものです。例えば階段を降りるときに「階段を降りるのに足をどう動かしたらいいか」なんて考えながら降りていったら、間違いなく途中で足を踏み外します。つまり考えるという行為は頭の中を動かすのであって、体を動かすことの対極だということのようです。

世界で一番足の速い人は誰かとか、高く飛ぶ人はとか、遠くに投げる人、早く泳ぐ人とか、スポーツの世界では記録が出るので比べられますが、世界で一番考えた人は誰かという質問には、簡単に答えはないのです。測定しようがないからです。それでも会えて上げようとすると、歴史上の著名な哲学者たちが挙げられるのでしょうが、その人たちにしてもスポーツのように考えた量が記録されていないので、数値で表される共通の見解には至らないものです。

主観的に、私の個人的な好みで敢えて挙げるとすれば、神学大全の著者トーマス・アクィナスを挙げます。考えた功績で聖人として崇められている稀有な人です。私は歴史上の考えた人たちの中で一番自然に、柔軟に考えているところが魅力でトーマス・アクィナスを挙げたのですが、他の考えの人もいるでしょうから、特にゴリ押しをする積もりはありませんし、そのことで論議するつもりはありません。彼は何かを結論づけようとしたり、思想を構築しようとしたり、論理を証明するような意図を持たず、「ただただ考えた人」というシンプルな思想家です。実はこれがとても難しいのです。

たくさんの人にもっと読んでもらいたい人なのですが、カソリックのお坊さんなので聖書を基本にしているので、宗教色が濃いのではないかという先入観が強く、今の時代には取っ付きにくいものなのかもしれません。ただこういう本が書かれたということを知るだけでも、人生が変わると思います。ちなみに神学大全は神学への入門書という位置づけですから、もしトーマスが本気で上級者へのものを書いていたらどんなことになっていたのだろうと考えたこともありましたが、実際には、どんな分野にも共通しているのは、初心者や入門者に物を教える方が上級者に教える何倍も難しいことなので、入門書の神学大全がトーマスのライフワークだったのかもしれません。

 

少し視点を変えてみようと思います。

一昔前までは考えるのは地上で人間だけだと相場が決まっていました。ところが考えるというのをもっと広義に捉える風潮が最近は主流です。考えているのは人間だけでなく動物も考えているという時代ですし、さらに、植物も考えているということが知られるようになっていますから、考えるというのは人間にだけ備わった特殊能力ではないということのようです。もしかしたら近々石や鉱物、金属までも考えているなんていうことになるのかもしれません。そして見ると、考えるというのは、道具と見るより、呼吸のような根本的な生命活動に伴う営みと捉える方が自然な気がしてきます。大自然もよくよく見れば考えているのかもしれません。もちろん宇宙もです。

 

最後に、人間の思考にはそんな中で少し特殊なものがあると思うので、人間の思考について整理したいと思います。

人間はこの考えるという能力を善用したり、悪用したりできるということです。ここがおそらく人間的な思考の特徴です。なぜか人間はこの二面性を持つようになってしまったのです。

そこには言葉から大きな影響を受けてしまったことがあるように思えて仕方がありません。

言葉抜きで考えられる人は稀で、ほとんどの人が言葉で考えていると思います。それどころか大半が言葉から思考につなげているのではないのでしょうか。ごく稀に、ずば抜けた思考力の持ち主が言葉に頼らず純粋に思考しているように思います。それはほとんど思考を超えた直感・直覚の領域のこととして語ることになるので、今回はパスします。

一つだけ言っておきたいのは言葉を過信するのは危険だということです。

言葉の大切な働きの一つはご存知の通りコミュニケーションです。言葉はコミュニケーションを多彩にします。しかしコミュニケーションは言葉が全てではないことも知っておく必要があります。

言葉は他に、ものの意味を明らかにしようとしているのだと思います。変な言い方ですが、もともと存在するものは、自然も宇宙も全て意味を持っているわけですから、その意味を見つけたり感じ取ったりすることは全ての存在に備わっている能力だと思うのです。ところが、今の私たちの手に負えるものではないので大抵はその能力を十把一絡げに本能という言い方で片付けてしまっています。人間はそこで見つけた意味を言葉化することができます。実はこの能力ありがたいようで迷惑なものなのかもしれないのです。

言葉は人間社会の中で発展するうちに、巨大化し人間を奴隷化するほどになったと言えます。人間が言葉を使っていると思っている人が多いのでしょうが、私は、特に最近は、人間は言葉に振り回されているとのだと感じています。言葉は人間が統御できるものではなくなってしまったようなのです。逆に言葉が人間の思考を思うままに動かしているのが現状です。

そこから脱却しなければなりません。そのためにいま一番要求されているのは自分で使っている言葉がどんな意味をもち、どんな影響力を持っているのか知らなければならないのです。その訓練を積むことで言葉を支配するという感触が見えてきます。

解放されないと言葉によるプロパガンダ、洗脳に振り回され、これからも隷属状態が続くことでしょう。

 

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