噛むは理解ということ

2022年9月7日

子どもの頃から「よく噛んで食べなさい」と言われていました。私はなんでも先へさきへと急いでいた子どもでしたから噛むのがめんどくさくて、数回噛んだだけでごくんと飲み込んでしまうのですが、母は見てみないふりをしながらもしつかりその辺りを心得ていて、小さな声で「よく噛むのよ」と諭したものでした。

噛めば噛むほど味に変化が生まれます。一般には甘くなります。そこではただ噛むという行為だけでなく、噛むことで出てくる唾液という魔法の液体、神秘の液体の働きあります。

唾液と混ざって食べたものがだんだん自分のものになって行くのです。

ところが最近は硬いものよく噛まないと食べられないようなものはどんどん減って、食べ物は平均域には柔らかくなっているようです。噛まないで済むようにという配慮なんでしょうが、誰の配慮なんでしょうか。

医学的には噛むことは既に消化活動とみなされていますから、よく噛んで食べることを医者は勧めます。

キリスト教文化ではイエス・キリストの33歳の生涯に託けて、33回噛むといいという人がいます。私の子どもの頃は五・六回しか噛んでいませんでしたから、キリスト教的には落第です。

 

噛むという言葉は、口の中の食べ物にだけいうのではなく「噛み砕いて話をしなさい」などと言います。食べ物は歯で噛みますが、話を噛み砕くのはなんなのでしょうか。相手が利害しやすいように難しい言葉とか言い方を避けて平易な表現で説明するということですから、自分でまずちゃんと理解するということのようです。噛み砕くというのは物事の理解にとって、話し手に課せられた課題なのです。

頭のいい人の話が分かりにくいと思っているのは私だけでしょうか。彼らの悪い癖は難しく話すことにあるように思えてならないのです。自分はこんなにことも知っていると講師ような知識を見せびらかすような話もあります。噛み砕くとは全く正反対です。このように話す人は本当はその難しい知識を本人も十分理解していないのではないか、そんなふうに勘ぐってしまいます。

誰が聴いてもわかるように話せるようになりたいものです。

 

 

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