センス

2022年11月5日

個人的には、センスが大事だということはモラル、倫理のことをああでもない、こうでもないと考えている時に確信しました。

倫理というのは善と悪の間を行き来しているものだと閃いたのです。その時見えない物差しが見えてきたのです。

善と悪は今までは、規制の物差しで測るのが普通でした。ところが物差しで測るというのは、その物差しを作った「力」に追随するだけのことで、実際には何にもならないわけです。善と悪の間を動いているものというのは手に取ることはできないものですが、はっきりと存在している見えない何かだと気付いたのです。

つまり善でもあり悪でもありということです。昔はこれを矛盾と言っていましたが、今風にいうと割り切れないもの、アンヴィヴァレンツということで、受け入れるしかないものなのです。善と悪の両方に言い分があるということで、どちらにも味方しないでいられるわけです。

 

今回この「センスのこと」がどこまで話せるか、正直自分でも予測不能でした。

講演というのは不思議なもので、聴衆が内容を引き出してくれるものなのです。それは聴衆を会場で目の前にしている時には実にリアルに実感できていたのですが、今回は電波の向こうの聴衆からも力をいただけました。

 

このセンスですが、はっきり言いますが第六感のことです。つまり超感覚的なものです。

私たちの心を支えているのはこの第六感なのです。理解は心を育ててくれます。自分のことを語らない様にして物事の理解に努めるのが一番です。あまり因果関係にこだわらないことです。自意識が肥大化します。現実を語らずに受け入れる姿勢を作ることです。西洋の人たちはこれが難しく、現代の日本人も随分洗脳されていますが、彼らの何でも説明しなければ気が済まないという気性は拭いきれない様です。そのため理屈を捏ね回して説明できたと信じ込んでいます。しかしそれは空想仮想の物語かもしれないのです。思い込みのこともあります。

理解というのは自分の勝手で説明しようとすると、どんどん離れていってしまいます。理解というのは自分という枠を超えたところのものです。理解は、理解しようと力んでいては得られません。その力みこそが物差しだからです。物差しを捨てなければならないのです。その時初めて理解の領域に入れるのです。

物事を理解するのも人間を理解するのも同じです。センスからしか理解には至らないのです。理解は超感覚的な世界にあるのです。

物差し文化を捨てでセンスを磨くことに切磋琢磨するのです。これが将来の教育の一番の課題になるものだと思っています。五感を鍛えるのがセンスに至る近道ですから、物作りということに通じるものです。

シュタイナーを勉強したり、シュタイナー教育の中にいると、このセンスが自然に身につくように勘違いしている人が多いですが、大抵の場合はシュタイナーの物差しを振り回しているに過ぎないのです。これも立派な物差しですから、実はシュタイナーでコウティングされただけの唯物的なものなのです。

センスは近くにありそうでまだまだ遠いい所にある様です。力んではダメで、力を抜いて努力しないと手に入れることのできないものです。

 

 

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