いただきます

2022年11月20日

「いただきます」という言葉をしみじみと味う歳になりました。

なかなか味わい深い言葉だとは思っていましたが、段々と生きることの中核にある考え方だと気がついたのです。生きているものの命をありがたくいただきますということですらから、戦争を起こす考え方の対極にあるものの様です。

今流行っているヴェガンという極端な菜食主義の人たちと話をしている時にちょっと気になることがありました。なぜ野菜だけで肉を食べないのかの話を聞いて別れ際にふと頭をよぎったことです。「あの人たちには植物の命をいただいているという意識を持っているのだろうか」。動物の肉、動物性の物、乳製品なども食べないと自慢げに話をしているのですが、植物の命をいただいているという意識を持たれているのかどうかは疑問でした。植物にも命があるのはいうまでもないことです。

 

友人からいい話を聞いたときに「これもいただきますだ」と思いました。単なる情報ではない、その人が人生をかけて得た経験の様なものは命のあるものだと思ったからです。今は情報が主流ですからなかなかそういう話に出会うことはないのですが、命のある話を聞くとしみじみと耳を傾けてしまうものです。「私の話はいい話だ」と豪語している人の話はカスカスですからいつもつまらないと思いながら聞いています。いい話、命のある話というのは、その話を聞いた私の中で新しい命として生き始めるものです。知識としての情報というのは聞いた分だけ私の情報通帳に加算されて行くので非常に便利で有り難く、時々引き出して使うのですが、数字の様なものですから私の中ではいつまでも聞いた時と変わらないままです。

 

食卓に並んでいるものは、植物、動物たちの生きている自然界の命からいただいたものだという世界観が「いただきます」には含まれています。これは環境問題とは次元の違う話です。「自然界の命を感謝していただきます」ということです。「ありがとうございます」もいい言葉ですが「いただきます」も同じくらいいい言葉です。どちらにも人と人との間を尊い命が伝播して行くからだと思います。

 

ただ私たちは説明に毒されていて、何でも説明できるものと思い込んでいるので、説明できないものは存在しないということになってしまいますから、説明不可能な自然界の命などというのは老人の戯言に過ぎないことなのかもしれません。食事に関しては、時代の流れを見ていると、それよりも栄養面を考慮する方が大事になってしまうようです。両方のバランスが取れる様になるといいのですが。

 

 

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