遊びです

2022年6月7日

子どもの頃は「遊んでばかりいないで勉強しなさい」というのがお母さんが子どもに言う決まり文句でした。

友達を遊びに誘いにゆくと、友達のお母さんたちは家で出てゆく友達に向かって「・・・」とおんなじことを言っていました。「勉強なんかいいから遊んでらっしゃい」なんて言うお母さんはいませんでした。

友達本人ではなくお母さんが「今は時間がないから」と断ってきたケースもよくありました。勉強するから遊んでいる暇なんかがないのだと言うことだったようです。

 

ところが 遊びは勉強より大事だと考えている私は、「何故親は子どもを遊ばせないのだろうか」と不思議でなりません。

永井荷風という小説家は若い頃にフランスに自費で遊んで暮らしていました。ぶらぶらしていたのです。当時は留学とは別の「遊学」といういい言葉がありました。それでビザが取れたのですからいい時代です。

当時外国に行くと言うのはほとんどが国費留学で、何かを学びに行くという目的がありましたから、永井荷風の目に映る留学生の勉強ばかりの生活は息詰まるものだったようです。留学生たちはそれこそ「遊んでいる暇があったら勉強」で鍛えられてきた日本有数の秀才たちだったはずです。そのように西洋に留学して返ってきた人たちによってできたのが近代日本だったわけです。西洋に追いつけ追い越せと日本を引率した人たちです。

余談になりますが、外国を伸び伸びと遊学した代表的な名前を二つあげると、白州次郎と麻生太郎でしょうか。思う存分遊び呆けたこの二人には普通の人間の幅を超えた枠を感じているのですが、この二人に深入りすると話が大きく逸れてしまうのでいずれまた。元に戻します。

 

所詮人生は遊びのようなものです。矛盾した「真剣な遊び」です。遊びというキーワードを外すと、人生は目的という名のうずの中に吸い込まれて這い上がれないでしょう。

遊びを勝ち負けのあるものと考える向きもありますが、それは狭い了見のなせる技で、昨今流行している「勝ち組」「負け組」的発想の原型です。念を押しておくと、これがまさにキリスト教型、ヨーロッパ型の遊びの原型ですから、西洋は2000年未だにそこから抜け出せないでいるということです。相手を負かすことが人生と称されているだけです。旧約聖書を読むと、自分と同じ信仰でない野蛮人は皆殺しするのです。これは遊びというキーワードを外した何者でもありません。宗教と言うのは遊びを毛嫌いするもののようです。

 

先日、プロ野球のレジェンド、落合博満氏が若手の選手にアドヴァイスしているYouTubeを見ていた時、落合氏がさりげなくしかも豪快なことを言っていて、ほっくりしました。

「野球は所詮ボール遊び」と若い選手に言っていたのです。その言葉を聞いた若手の選手は「ワカラナイ」と言わんばかりの顔をしていました。

人の言葉を引用するというのは危険です。大抵は前後の脈絡を無視して使われてしまうからです。さらにそれを引用する人間の主観が入りすぎることからその危険は増大します。特に落合氏の言葉は今までにも誤解しか招いていないものの典型ですから、尚更危険です。落合氏を語る時によく使われる「練習はしない」と言う言葉も、内実を抜きに独り歩きして、誤解を招いているようです。落合氏は「普通の練習はしない」と言っていたに過ぎないのです。私も私の発言が全く逆の意味で使われたと言う苦い経験がありますから、人様の引用を使うときはとても気を使っています。

その時の状況を言うと、落合氏に相談していた若い選手は物事を深刻に考るタイプの人だったことから、茶化すつもりは無かったのでしょうが、「そんなコチコチでは何の答えも見つけられないよ」という流れの中からの言葉でした。しかし落合氏は若手に、真顔で、面と向かって、ニコニコと「所詮(野球は)ボールあそび」と大胆極まりないこと言うのです。

この心の余裕が、私には永井荷風のような遊学的感触が、選手としてまた監督としての落合さんの根底にあったのだと考えています。

野球少年が憧れのプロ野球で野球をするようになる。これは外部にいる素人には想像のつかない世界のはずです。生存競争の激しい社会です。数字で残された成績だけが次の年の首を繋いでくれるような、リスクの多い社会です。野球のエリート集団ですから人間関係も複雑そうです。

その真剣勝負の連続のような世界に向かって「野球は所詮ボール遊び」と言い切ったのですから「あっぱれ」です。いかにも落合氏だと関心して聞いていました。

 

私がドイツに行くときに父は「十年は返って来ないくてもいいから」と言って送り出してくれました。

「十年は返ってくるな」というのでもありませんでした。「勉強が終わったら返ってこい」でもありませんでした。「嫌ならすぐに返ってこい」でもありませんでした。

「十 年 は 返 っ て 来 な く て も  い い か ら」でした。

隣のおじさんは「捨てる神あれば拾う神在だからね」でした。

 

一昨日でドイツに来て45年になりました。

エゴからユーモアへ

2022年5月31日

エゴとユーモアの間に自分がいます。いやそうじゃなくて、エゴもユーモアもどちらも自分の変わり果てた姿です。

自分がどんどん進化していったら、エゴも無くなるでしょうが、ユーモアも消えてしまうはずなのです。

 

何故こんな遊びともつかないことをやっているのかというと、最近自分の進化と共にユーモアも消えてなくなってしまうのたど気づいたからです。

自分が神様のような存在になった時、自分は輝くような存在になると思っていたのですが、そこに現れたイメージは、自分が進化したらユーモアがなくなってしまということです。

昔は自分が進化したらユーモアが膨らんで自分なんてなくなってユーモアだらけになってしまうと考えていました。内心では、早くそうなりたいものだと願っていました。

だから神様というのは、もしいたとしたら、ユーモアに溢れたいっしょに飲みにゆきたくなるような楽しいお方かと思っていたのです。

ところが人間が神クラスになるとユーモアがなってしまうかも知れないのです。そして神様って全然ユーモアがない存在なんだという直感的イメージを持ったのです。衝撃的でした。

これって悲しいかな正解です。

 

エゴとユーモアは対極です。

自信満々だとエゴで、自分を笑い飛ばしているとユーモアです。

簡単に言えば自分を肯定するか否定するかのお遊びです。この遊びは長いこと続いて、自分が神様クラスになった暁には、自己肯定も自己否定もなく、自分はただの自分になってしまうんです。自分以上てもなく自分いかでもないという、最も簡単な仕組みがそこにはあったのです。

ただ自分あそびは、肯定してもどこかで否定していて、非否定していてもちゃんと肯定できているという不思議なルールがあるのです。難しい遊びではありません。皆さんもしょっ智勇やっているものです。

ということです。

今日はこの辺で失礼いたします。

 

翻訳は、いい加減のほうがいいのでは

2022年5月21日

言葉は理性の産物というより、大半は習慣の産物ではないかと思っています。翻訳をしているとそのことを強く感じます。民族の習慣と個人の言語習慣が重なり合うものを、他の言葉に移すということですから、極めて難儀なことです。

気取って言えば習慣ですが、所詮は癖です。無くて七癖です。ということはドイツ語の持つ民族的な癖と個人の癖を掛け合わせるのでも少なくとも四十九の癖が渦巻いているということになります。それを日本語になおすとなると、日本語にも日本語と個人の癖を掛け合わせたものが四十九はあるので、翻訳というのは、計算上はほとんど成立しない不可能なものと言えそうです。

ところが現実には成立しているのです。翻訳はほとんど奇跡に近いものです。異口同音に「日本語になっていないので読みにくい」という言葉を横目にしながらでも愛読者がいるのです。もしかしたらかえって翻訳調の方が、外国のものを読んでいるという実感があっていいのかもしれません。

 

翻訳の世界と少し付き合っていると、人間の言語能力は素晴らしいと思わずにはいられません。翻訳者の魔法にかかっているのか、読み手の超能力的な読書力によるのか、なんとも言い難いですが、とにかく翻訳は読まれているのです。そして読んだ人はそこから何かを得ているのです。

余談ですが、川端康成がノーベル賞を取った時三島由紀夫と伊藤整と三人で鎌倉の自宅の庭先で対談をしています。そこで川端が「今度のノーベル賞の半分は翻訳者に与えられてもいいのではないか」ということをポロッと言っているのですが、日本語を読める専攻委員は一人もいないので、みんな英語で読んでいたわけですから、英語以外の言葉で書かれた作品にノーベル賞が与えられる時には、翻訳者にもお裾分けを与えたほうがいいと川端康成は思っていた様です。

 

翻訳が伝わるのは書き言葉だからということは忘れてはいけません。日常生活で使われている口語の翻訳は一層困難だということはあまり知られていない様です。

どの様な文章でも翻訳するような言葉は選ばれた言葉です。翻訳するために時間が取れます。言葉を選ぶ時間があります。ところが日常生活で使われる言葉は、テンポが速い上に、話題が知らないうちに変わっていたり、省略した言い方が主流ですから、状況を瞬時に把握しなければならないので、「時間をかけて冷静に」なんて呑気なことは言えない世界です。特に日常の会話ではドイツ語の癖としゃべり手の癖が丸出しですから、先ほど数字て見た以上に、お互いの理解はほとんど不可能ということになりそうです。

翻訳の場合は少しずれても読み手が冷静に読んでくれれば、そこでの間違いは補正されていたりするものですが、日常会話は大変なスピードですから、その瞬間にわからなければならず、翻訳の時のように辞書をひいてなんてことは通用しません。会議などの同時通訳も同じでまさに真剣勝負の様なものです。ちなみに同時通訳は1時間を三人で交代して行います。二十分やったら四十分休んでからまた通訳します。そのくらい神経を使ってやっているのです。

 

いま翻訳を少しやっていて、できるだけ日本語で読みやすい言葉でと思いながらやっていますが、ふと立ち止まって、先ほどのようなことを考えると、何とか意味が伝わっていれは、そのほうが翻訳らしくていいのではないかと思ったりするのです。特に日本は西洋文化を崇めていますから、わかりにくい翻訳調の方がありがたかったりするのかもしれません。

 

そんなこんなで最近はいい翻訳なんてどうでもいい様な気がしてくることがあります。直訳的な読みにくい翻訳でも日本語になっていれば、なんとか読み手の読解力で読み砕いてくれるものです。訳す方も読む方もたっぷり時間があるのです。

日常会話を真剣で勝負している様なものすれば、翻訳は竹光で立ち会っている様なところがあるのかもしれません。翻訳者と読み手みと両方で頑張ればとりあえずはいい作品が出来上がるものです。