創造性と破壊性。芸術について。

2022年3月13日

芸術とは何かと問われたら、芸術はカタルシスであり、調整役だと答えます。自分を保つためのものかもしれません。芸じゆつと身構えなくても身近なところにもあるものだと思います。

グロテスクな言い方かもしれませんが、生きるに必然的に伴っている諸々のストレスを発散させ、生きることを活性化しているものだと思います。活性化している自分が一番伸び伸びとしています。私はそんな自分が好きです。

芸術が私たちを意識を否応なく集中させるところを見ればその大きな役割がわかります。その役割は気がつかないことが多いですが絶大です。芸術が無かったら生きるという行為は干からびた大地です。コロナ禍で芸術が閉鎖されたときに感じた息苦しさはしよう外忘れることはないと思います。

簡単に言えば私たちをぐいぐいと引き込んでくれるものです。時代時代にそれぞれの引き込み方があることから、時代性を反映した芸術が生まれるのです。地域性もあります。もちろん個人差もです。一人一人が自立していれば、みんなが違う芸術を欲しているのだと思います。

 

芸術について作る方から語ると、創造性ということが必ず出てきます。ものを創るということですから当然です。ところが、もの作りには一筋縄ではゆかないものが付き纏っています。壊すということです。創ると壊すというのは対極にあるものということになっています。しかし実際にものを作ったことのある人はわかると思うのですが、対極ではなく、とても近くにあり、あたかも同居しているようなものなのです。作ると壊すの間には途轍もない緊張感があります。それは創作に欠かせないものです。光と闇の間に生まれる色に例えることができると思います。

余談ですが英語のprogress(発展)とaggress(攻撃性)は同じ根っこを持った言葉です。これが不思議に思えたものですが、今は少しわかったような気がしています。

芸術家たちの創作を目の当たりにすれば、ただただ作り続けている人などいないものです。毎日確実に一歩ずつ前に進んでゆくなんてことはあり得ないものなのです。進んでいるように見えるのは外から見た場合に限ります。本人は一進一退です。壊すことが、創作には欠かせないものだとわかります。原稿を紙に書いていた時の作家のゴミ箱はすぐに一杯になったものです。

 

数学が顕在している世界の理解に欠かせないように、潜在している力を理解するために、理解というよりそれと共存するために芸術は不可欠なのかもしれないと思うこの頃です。

褒めたり貶したりしない

2022年3月12日

個人的な経験からですが、人をやたらと褒める人は、同じくらい人の悪口も言っているような気がしてなりません。

人を褒める、貶すというのは、その人の心の浮き沈みの反映したものというより、もう少し深いところから来るものだと思うようになっています。

 

貶したり悪口を言うのは自分を上位に感じたいが故のものと言えるし、褒めるというのはどこかに下心を感じます。最悪はゴマスリですが。

それらは基本的にはエゴからの働きの現れの姿のように映ります。エゴが社会的産物と言われるのはそのように周囲との駆け引き、周囲から影響されるからなのでしょう。ドイツ語でInteresse、英語ではinterestingは興味深いとか、面白いという意味合いで使われるものですが、実はこの言葉もエゴ的なもので、利益という意味合いもある言葉です。自分の利益のために働くという時などに使います。周囲との駆け引きが関心事なんですね。私たちの関心事は儲かるか儲からないかということでもあるようです。

 

貶すという露骨なものではなくとも、私たちに染み付いている勧善懲悪というものの根源は、悪が主体になったもので、世の中に悪を見つけ出し、悪人を見つけ出し、それを懲らしめることで善が見えて来るというシステムです。自分が或ることをいいことだと思い込むことで、それ以外のものを悪に仕立てるということもあります。善と悪との関係は数学的に関数で示せないものなのでしょうか。

 

実は悪というのは、勧善懲悪のレベルより遥かに深い根っこを持っているもので、私たちが善を目指したり、善に取り囲まれていると、そこに必ず出現するものです。何人かでことを進めようとすると、必ず足をひっ張る人がいるというのもそういうものと似ているのかもしれません。社会に絶えることのない犯罪、戦争のような惨事、そうした悪の権化のようなものも実は善の潜在意識の深いところからの必然的な産物だと見ています。

私がいつも不快に思うのは、そうして出現した悪を「何の誰べい」と固有名詞を使って片づけることです。ジャーナリズムの安易なストーリーを作る悪癖のなせる技かもしれません。事実は小説とは違ってそう簡単には物語化されないものです。ジャーナリズムに数学的なセンスが欠けているというのが私の見解です。

褒めたり貶したりというのはつまるところこの情緒的な、感傷的な、センチメンタルな勧善懲悪と双子のようなもので、システム化されて社会で悪癖として機能し続けるのでしょうか。

 

褒めるという俗的なもの、利害から離れたところにある尊いと感じる心について述べてみたいのですが、この思いはほんの瞬間にしか心の中に現れないものです。色に例えればとても淡い色、音に例えればピアニッシモのようです。

尊いと思う気持ち、思える気持ちは大切にしてきました。とても静かな心の動きで、澄んでいて、そこにははっきりと為人(ひととなり)、人格が映し出されています。それだけでなく、その思いは周囲の人に伝播して、いい影響をもたらすのです。その気持ちの持ち主がいるだけでその場が清まり、物事がうまく片付くということもあるほどです。

ぜひ褒めると、尊く思うという二つを比べてみてください。

 

 

祝福された告別式

2022年3月9日

先月28日に亡くなりました母、俗名仲叔子、戒名は徳優院歌詠日淑大姉、に沢山の花籠、花束、弔電、メール、お花代をいただき心からお礼申し上げます。

母は村山流という野の花の一輪差しの師範の免許を持っていた人でした。特にお弟子さんを取ることもなかったのですが、お花を愛する心は人一倍で、いつも家のどこかに花が飾ってありました。七年前の父の葬儀の時は全国から送られた沢山の花に埋もれた父を見て幸せそうでした。

この度の葬儀にも多くの方から贈られた花に包まれて、病院から運ばれ我が家で四日間たくさんの色とりどりの花に包まれて過ごしました。皆さんのお心遣いに感謝しながら、喪主として幸せを感じていました。有難うございました。

この四日間の短い間に母の顔が変わるのです。初めの日はまだ病院の疲れを表情に残していたのが、二日目には穏やかになり、そこからはどんどん若くなって行くのです。途中でドイツの家族に写真や動画て最後の母の顔を送ると、「おばあちゃんお嬢さんのようになっている」と言う言葉が返ってきました。話しかけると起き上がってきそうな自然な眠りでした。

皆さんが、母の入院のことを聞きつけると、コロナ禍の中、せっかくドイツから帰って来たのに病院にゆけないから辛いでしょう、悔しいでしょうとお言葉をかけてくださったのですが、豈計らんや、私たちは母が直腸を切り取り人工肛門をつけたため、その処理の講習を直に母の体でしなければならず、全面的に面会謝絶の南共済病院に入って母の元で講習を受けることができました。そのため母と対面ができたのでした。母はいつものユーモアを失わずに、私の冗談に笑顔で答えていました。

「元気そうだね」

「元気よ、大丈夫」

「またうちに帰れるね」

「うん。手を取り合って帰ろうね」

と妹にいい、

「じゃあ。また来るね。元気でいてね」

「お互いにね」

と私の顔を見て言っていました。

 

病床の母と合計で三回も会うことができたのは、このコロナ禍の中での最高の贈り物でした。母の返す返すあっぱれな裏技に、驚いたり、頷いたりして感謝しています。

葬儀も無事終わり、あとは、聞きつけた方達の訪問と、死に伴う厄介な諸々の書類整理に追われる日々になると思います。

葬儀を支えでくださった皆様に心からの感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

合掌