斑、むらの効用

2022年4月1日

漆の塗り物や、ペンキなどを塗っていてムラがあるような塗り方をしたら親方からこっぴどく叱られます。一様に満遍なくが美しいとされる世界です。

最近何人かの料理人の人からムラのある料理はかえって難しいと聞き、ムラを作ることを意図することもあるのかと再認識しました。しかもその料理人たちは私が名人と呼びたくなるような人たちだったので、驚きは大きく新鮮だったのです。

ムラは漢字でかくと斑点の斑の字が当てられています。「まだら」ということですから日本的感覚からは不良品ということです。

 

料理は目でも食べているということは常識です。特にグルメが言われるようになってからが顕著になったような気がします。見た目に美しく出された理料理は確かに美味しそうです。しかし料理の本道は口の中に入ってからで、食感と味覚、そして余韻のはずです。

見た目だけで料理が決められてしまうのだったら、着色料など使って綺麗に仕上げればいいということになりますが、口の中での勝負となると、舌の肥えた人たちを騙すことはできないものです。

 

ムラのある料理と言っている人の言葉を整理してみると、口の中に入ってからをはっきり意識していました。口の中に入ってからも料理はまだまだ課題を持っていると考えているようで、食べる前に出来上がっている料理よりも、口の中での遊びを考えているようなのです。

美味しい料理というのは確かにあります。あそこのお店は美味しいですよ、というのはある意味本当ですが、それはあくまで一般論で、いわゆるグルメ好きの人たちがああでもないこうでもないと言って評価するところからうまれるものです。ところが美味しいと感じるのは実際にそれを口にした本人で、その人が口にして、そして咀嚼して、飲み込んで、その余韻の中で広がるものです。美味しそうではなく美味しかったが本物です。ドスから車メールで頻繁に送られている料理は、グルメ的発想の延長にあるものです。

料理は主観的なものだと言いたいのです。そして見えないものです。

つまり料理をムラのある状態で仕上げて出す。それは、後は食べる人に任せるということですから、きれいにレシピ通りに仕上げることよりも深く料理に自信がないとできないものなのかもしれません。

ムラのある料理とは言ってももちろん見た目も美しくなければならないのですが、それだけでなく食べてからがまた美味しくという二段構造です。ということは料理を作る人たちは一層の配慮が求められるということになりそうです。

 

このムラの発想は料理に限ったことではなく、私が講演している時にも感じて、実践していたことでした。講演ではハウツーを示すことを極力避けていました。ということは私の講演会にいらっしゃっても、即役に立つような話は聞けないということですから、それを期待する人に来られなくなりました。私の課題は、たとえばある講演のテーマが出された時に、そのことを考える材料を出すことでした。その材料を聞いている方たちがそれぞれの状況で、それぞれの人生の中で、自分に一番相応しい答えを、自分の中に見つけていただきたかったのです。答えを導き出すのは、聞き手一人一人ということでしたから、講演を終えた私に「今日のお話は私にしてくださったようでした」と何人もの方から言われたものでした。そんな時私は内心で「よかった。皆さん自分の答えを見つけたんだ」と思っていました。

 

ムラのことを考える時に、音楽を演奏するときムラが難しいことに気がつきました。特にクラシックの演奏は間違いなく弾くという課題があります。ミスタッチは許されないのですから、ムラのある演奏は極端に難しいと言わざるを得ません。もしかするとクラシック音楽というものはムラと一番縁のないものなのかもしれないと感じるのですが、どうでしょう。

もちろんテンポなどはメトロノームで弾いたら死んだ音楽にしかならないので、演奏者に任されますがメロデーは正確に楽譜通りが要求されますからそれ以外はミスタッチです。

どのように音楽でムラを作ったらいいのかということです。

クラシック音楽に限らず、ジャズやポップと言った軽音楽にもムラの難しさは言えるような気がします。数多の音楽の中で、音楽の特殊性がそこに見られるのかもしれません。

 

私の家のお寺さんは谷中にあり、東京芸術大学の二つの門の前を通るのですが、この大学、美術系と音楽系が分かれています。

どういう人がどちらの門に入ってゆくのかは一目瞭然なのをいつも可笑しく感じながら通り過ぎてゆきます。美術系の人はだらしなく乞食風で、音楽系はきちっちりしているエリート風です。

 

教育にムラ的発想を導入できたらと考えるのですが、そのために方法論とかカリキュラムのようなものを打ち出してしまうと、逆効果で、レシピ通りの教育になってしまうでしょうから、方法論はご法度で、どのようにムラ的発想をお伝えしたらいいのか思案中です。

 

シュタイナーが「人智学は料理のレシピのようにやらないでください」といった意味がようやく分かりかけています。

 

 

 

非認知能力と馬鹿について

2022年3月31日

最近よく耳にするのは非認識能力という言葉です。認識能力はよく耳にしますが、これは新種です。

認知能力は知的能力、簡単に言うとお利口さんのことと見て言い訳ですから、非認識能力というのは非知的能力ということになり、知的でないことです。とは言っても、正直焦点を合わせかねます。とりあえずは馬鹿であること、馬鹿でいい、馬鹿を認めようということなのでしょうか。

ところがよくよく見ると、最終的には非認知能力を認めることで認識能力、知的能力を伸ばそうという流れになっているようなので、やっぱりお利口さんを作るための隠し味になりそうで、私が期待したのとは少々違うようです。馬鹿の存在感が全く感じられないのです。

 

知的能力を開発することが教育の主眼となった時代が長く続きました。実は私たちはそれしか知らないというのが現実です。その間に起こったことを振り返ると、ゆとりのない窮屈な社会の出現だったのではないのでしょうか。夏目漱石ではないですが、「智に働けば角がたち」ということのようです。知的なものは角張っていて、しかも反感に基礎があるので、冷たいもので、物事を理解するにしても距離を置いて他人事のようなコメントですから、空しさがあります。傍観者だからです。

非認知能力は合目的でないこと、無駄を認めること、そして一見意味のないことも認めようとしている訳ですから、今までにないスタンスです。これから社会的にどのように評価され、浸透してゆくのでしょうか、楽しみです。

 

馬鹿と利口のバランスが取れている人が理想的だと考えるのですが、そういう人は少ないものです。経験から言うと、話をしていてとても楽な人たちです。なぜだろうと考えるとその人たちは精神的に呼吸をしているからです。話し相手として前に立っている私がその人の中に組み込まれていると感じるのです。

利口な人は違います。息を止めて相手を睨みつけるので、こちらも息苦しくなってしまいます。私ははっきり排斥されているのです。

もちろん馬鹿な人と話をするのも疲れます。話が散漫になってしまい、纏まらないので気が抜けてイライラします。話は堂々巡りになるし、相手のどこにも私の居場所がないのです。

バランスが取れていることの素晴らしと、不思議さをつくづく感じます。

 

呼吸というのは本能的にバランスをとっているのに、馬鹿と利口のバランスは本能で処理されていないので至難の業です。このバランス感覚はどのように磨くことができるのでしょうか。

このバランス感覚は精神生活のためにはなくてはならないものですから、これからの社会を考えるならば今すぐにでも見つけなければならないと思うのです。そのためには知的能力に傾いたところをほぐす必要があると考えるのが普通ですが、知的能力に直接働きかけて功を奏することはないし、ましてや知的能力を否定する動きになってしまうのである意味危険を伴うので、そこに登場したのが先ほどから言っている非認証能力と考えたらいいのかもしれません。

 

これからも観察してゆきたいと思っています。と同時に私は私で、馬鹿というものを斜にではなく真正面から見つめてみたいとも思っています。

書くべきこと、書きたいことより書けることを

2022年3月15日

書かなければならないことなんか書けないものです。恐れ多いことです。

書きたいことを書けばいいのにと言われますが、そこに焦点を合わせるのは難しいです。

今の私には、書けることを精一杯、散漫に書くだけなんです。所詮できることしかできないのです。

 

ブログの文章を書き始めるときは、大まかな筋だてを立てて出港しますが、途中から違った流れが生まれるものです。そのときはその流れに沿って書くことになります。それが書きたいことなのかどうかと問われれば、正直わかりません、と答えます。書かされているという感じもあります。書くしかないので書いていることもあります。自動書記のように何かが乗り移って書かされているというようなことはありません。とりあえずは考えながら書いています。

 

講演も同じで、言えることしか言えないと初めから割り切ってやっていましたから、机の上で勉強した知識を並べ立てる講演は一度もしたことがありません。

もしかしたら千回以上した講演の基本はおんなじものだったのではないかと今振り返ると思います。

それでも主催者の方達、聞きにきてくださる方たちはいいとおっしゃってくださいました。それに甘えた訳ではありませんが、私にできることを、できるだけ丁寧に話にまとめたつもりです。もしかするとそれが故に、去年聞いた話にオーバーラップさせながら聞けたのかもしれません。

 

モーツァルトを聞くと、どんな曲でもモーツァルトだとわかります。ベートーヴェンも、バッハも、ヘンデルも、ショパンも然りです。数多いる作曲家はみんな然りです。

絵画でも同じことが言えるのではないかと思います。

もしかすると彼らもいつもおんなじものを作っていたのかもしれません。それしかできなかったのだと思います。間違っても個性的であろうとか、独創的なものを作ろうなんて思ってやっていなかったはずです。そんなふうに作っていたら、却って平均的で一般論的な音楽や絵がが歴史の中に並んでいるだけで、すぐに飽きられてしまうものだったに違いありません。

結果的に同じとは言っても、それはそれで特徴だといえば特徴ですし個性かもしれませんが、個性や独創性をはじめから狙ったものでないことは確かです。ある意味ではものづくりの人たちはいつも限界にいたのかもしれないと思います。自分にできることを、ギリギリのところで作っていたということです。

後世の人たちはそれらの作品を名曲だとか言うのでしょうが、それは媚びた商業主義です。名曲を書こうとした作曲家、名画を描こうとした画家は一人もいないというのが真実のように思います。

人間はみんな自分にできることをギリギリのところでやりながら生きているのだと思うのです。その生き方が、もしかすると後世の人から立派な生き方と評価されたりする事になるのかもしれません。