人形の顔。線の動き。

2022年3月2日

孫にコケシを買ってゆきたいと色々とコケシを見ていて、コケシごとに顔が違うのがとても興味深かったのです、そんなこんなを書いてみます。

 

まずはちょっと違ったところから人形の顔の興味深いエピソードを書いてみます。

ある保育園の園長先生が園の秋のバザーに手作り人形を売る提案をしました。

早速人形をどこに注文するののかという話にまで進み、ある老人ホームに聞いてみようということになりました。老人ホームの住人の中にはかつて手作りを得意とした人が必ずいると読んだのです。

ある老人ホームから朗報が舞い込み、早速必要な材料を添えて注文を発注して出来上がりを待ちました。二十体の人形ですから、秋のバザーに間に合うように春頃にはすでに注文をしていました。

夏の終わり頃、注文していた二十体の人形が出来上がってきた時は、園長先生はじめ職員の人たちは、送られてきた段ボールの箱が開くのが待ち遠しいと言わんばかりでした。

さて人形が箱から出されてきた時です。園長先生の期待に溢れていた顔が陰ったのです。無言のまま、次の人形を箱から出すと、また同じように沈んだ顔なのです。他の職員もそれぞれに箱から人形を取り出したのですが、みんな一律に顔が陰ってしまったのです。

人形はよく作られていて申し分のない出来だったのですが、人形顔がみんなお年寄りのおばあちゃんの顔だったのです。「これでは売れない」とみんなが顔を見合ったということです。

 

コケシの顔を見ている時に思ったのは、作家さんのイメージが顔を書かせているということでした。古い時代の顔と今風の顔があるようです。好みもあるので一概には言えませんが、私には古い顔の方が穏やかな気がします。その顔を見ているとこちらも幸せになってきます。

ドイツにクリスマスの頃になると出回る、エルツ地方(旧東ドイツ)の人形があります。ドイツの人件費が高くなり、ある時からほとんどが外国に発注されるようになりました。初めは東欧でしたが今では東南アジアでも作られているそうです。

その人形たちの顔が、いわゆる「Made in Germany」の時の顔と、外国に発注されるようになってからの顔は明らかに違います。アジアの職人さんの器用な手がドイツのオリジナルの顔を真似して書いているのでしょうが、技術的な優劣ではなく、僅かの線の動きに微妙な違いがあり、その僅かの違いが顔全体の表情を別のものにしているのです。どこか昔の顔と違うのです。

 

今の二つの例を見て言えるのは、顔つけは、それを描く人そのものが丸ごと出てしまうということです。

顔は顔なのですが、線にその人が出るのだと思います。老人ホームで作られた老人の顔をした人形を私も見せていただいたのですが。点として、つまり目だけを見れば不自然なものは何もないのです。鼻も、口元もです。しかしそれを結んだ見えない線の中に、老人がいたのです。

 

私たちの生き方は、点で見るか線で見るかによってずいぶん違ってきます。

大抵は点で見ています。しかし人生はその点をどのように結ぶかで決まると言えるのではないかと思つています。

何が点で、何が線なのか考えてみてください。

 

 

母の最後

2022年3月1日

退院の日の早朝に母が亡くなったことはやはりショックでしたが、思い返すと、母が直腸を手術したことで人工肛門に切り替えられたため、その取り外しのために母のそばで実地の講習を受けることになり、全面的に厳しい面談禁止の措置が取られている病院で、例外的に母のもとにまで足を運ぶことができました。

手術後二週間した時に、病院側の計らいで、講習を受ける付き添いの形で、初めて母の元にゆくことができ対面できた時は、手術後の経過が驚くほど良好でとても元気だったので、簡単なことでしたが30分以上も話すことができました。その時撮った画像をドイツの家族にも送れました。

それが母との最後の幸せな時間でした。

それ以降母は、今思えばですが、少しがずつ変化していったように思います。特に最後の二十四日の訪問ではもう在りし日の姿とは違うのが気になりました。その時はまだ「きっと家に帰れば、住み慣れた環境の中でまた平生をとり戻す」ような気がしていたのですが、やはり無理だったようです。

母がそのことを一番知っていたのでしょう。これ以上もう人のお世話にはなるまいと、退院の日まで、私たちに希望の火を心に灯させ、でも、その日の早朝に一人で静かに逝ってしまいました。

 

母の存在を今はしみじみと噛みしめています。

 

母の突然の死

2022年2月28日

今日は母の退院を予定していました。

先週末には退院後の生活に不自由がないための準備が滞りなく終わり、母の帰りを待っていました。

朝四時に病院から母の死を伝える電話がありました。

「今日は退院の日です」と心の中で反発しても「仲淑子さんは今日未明お亡くなりになりました」という病院からの言葉を打ち消すことはできませんでした。

 

母は退院を予定していた今日、亡くなりました。享年九十五歳でした。

なぜ今日なのか、まるで渦に巻き込まれたように足場を失いかけていました。

真逆の方向転換を余儀なくされて、当初は「なぜ」を繰り返すだけでしたが、冷静になるに従い、母が選んだ道が、今の状況の中で最善の道だったことが合点できるようになりました。

死はいつも突然やってきます。

父も母も一人で旅立ちました。

「さようなら」は二人には必要のない挨拶だったようです。

私が交わした最後の会話は

「大丈夫?」

「大丈夫!」

「もうじき帰れるね」

「うん」

でした。

本当に嬉しそうに明るく話ができました。

母はとても嬉しそうでした。

私もとても稀有な幸せを感じていました。

 

いま母はピカピカの新品のベッドで静かに横たわり、病院を出た時とは比べ物にならないくらい穏やかな顔つきに変わっています。時間が経つにつれてどんどん若返って、乙女のような清らかな顔で安らかな眠りについています。

私は今、母に育てられたことの幸せを噛み締めています。そしてそれは大きな誇りとなって私を包んでいます。

「お母さん、ありがとう、お母さん」