2025年5月7日
音楽の音というのは特別な音で、自然界に存在する音とは違うものだと思っています。
一番の違いは、演奏する音が、演奏者の命の中で一度死んでいるということです。死というプロセスを通って蘇った音のことを、私は音楽の音とだと考えています。
この音に気づいている人は多くないのですが、音楽をする上でこの音は演奏する人の無意識の中で憧れなのです。本当の音、生きた音というのはただ楽器を弾いただけでは生まれないものです。名器と言われている、優れた楽器を弾けばいい音が出るのは当然ですが、それだからといって、それだけで生きた音にはならないものなのです。かえって優れた楽器に振り回されて、その楽器を弾くことが大切なことになってしまうと、音楽は退屈なものになってしまいます。まさに「弘法筆を選ばず」が書の世界だけではなく音楽の世界にも言えるのです。もちろんいい音のする楽器で演奏することは演奏者にとっての楽しみではあるのでしょうが、しかもそれが名のある名器であったりすると、それが自慢の材料になりますから、なんの楽器を使っていますと人に知ってもらいたくなるのでしょうが、それては本末転倒です。ちなみに私の今までの感触では、名のある名器は音が鳴りすぎるのでどちらかと言うと苦手です。
有名な弦楽器て演奏されたものでも心に残るものはあります。心に残るようなものは、チェロのエマヌエル・フォイアマンとヴァイオリンのダヴィット・オイストラフの二人です。楽器に負けていないところが素晴らしいと思います。彼らの存在が伝わって来る演奏で音がとても透明です。よく鳴る名器で演奏する時ですら音を一度死のプロセスから蘇らせ、彼ら自身の音に生まれ変わっているのです。実際に名器を演奏する人たちは、楽器の音に魅せられているのでしょうが、そこで終わってしまってはいい楽器で演奏したとしても、普通の音楽になってしまいます。それでは生きた音楽からは遠いいのです。
私事で恐縮なのですが、私の使っている楽器は1960年に作られたアルトライアーです。知り合いのライアー弾きたちがこのライアーを弾くといつも「こんなに鳴らない楽器なんですか」という感想を漏らします。私はこの楽器が鳴らないところが好きなので、お褒めの言葉をいただいたような気になっています。ところがおかしなことに初めてライアーを録音してリリースした時には「エコーが入っている音」と言われるほどよく響いていたのです。普通に言うと鳴らない楽器のはずなのに、録音で聴く音はそんなことを全く感じさせない、むしろエコーを入れて増幅しているとまで言われてしまうものだったのです。エコーを入れた音はボエけてしまうので、聴く人が聞けばその違いは一目瞭然だったので、その後はそういう人はいなくなりました。
音は一度死のプロセスを達と別の次元のものに変わるのだと思っています。よく鳴らない楽器だからこそ、かえって弾き方を工夫する必要が生まれたとも言えます。実はこのライアーは二代目なのです。最初の楽器も年代もので、同じくらい鳴りの悪い楽器でした。しかし弾き方で音は変わるもので、その鳴らない楽器で録音できたのは幸いでした。この楽器は事情で手放してしまってからは、弾き手が変わって音が変わってしまいました。その後鳴らない楽器をしばらく探して、運よく見つけました。知り合いにスポンサーになってもらえて、ゲットできた時の喜びは今でも忘れられません。実に鳴らない、しようもない楽器なのですが、私の弾き方によく馴染んでくれる楽器です。私にとっては正真正銘の名器です。
日本に滞在している間は、いろいろな楽器を好意で使わせていただくのですが、やはり最初は思い通りの音が出ないので、弾き込みます。しばらく弾いていると音が変わってきて私の弾き方に楽器の方で合わせてくれるようです。そしてよく鳴らないように弾くのですが、これがかえって聞き手の心に届くようなのです。貸していただく楽器の多くがよくなりすぎるので、それが大きな悩みです。
よくライアーをヒーリングの楽器というふうに紹介される方がいますが、私は、ヒーリングの本筋は楽器にあるのではないと考えています。どんな楽器でもそこから生まれる音がヒーリングの効果を持つかどうかなので、弾き手がヒーリングの世界を作り出せるかどうかだと思います。繰り返しますが「弘法筆を選ばず」です。医療でも最新の機械や特効薬を使えばヒーリングとみなされることがないようなものです。一人の医師が治せるかどうかなのと同じだと考えています。赤髭のような医者がたくさんの人を救ったりするような感じです。
手当てというのはなかなか意味深い言い方です。万国共通の言い方のようで、掌の中に何か力が宿っていると感じているのでしょう。音楽の演奏というのは想像以上に体全部を使っているものなのですが、究極的には手が最後の決め手になるのです。手のひらや、指先に心が宿るかどうかなのではないか、そう思います。一人の人間の心とか存在が指先にたどり着くまでに死のプロセスを通っているのかもしれません。
2025年5月1日
一人の人を突然好きになってしまったという経験は多くの方がお持ちだと思います。人に限らずものの時にもよくあることです。無性に気に入ってしまい使用どう外をしてしまうようなことです。
人だとすると、そのお相手さんは探し出して見つけた人ではなく、また人に紹介された人というのでもなく、全く突然に他人が集まる集団の中から、一人だけ浮き上がって目の前に現れて来るのです。向こうからやってきたというのが適切な言い方です。こんなことが起こってしまうのです。
自分で懸命に探してようやく見つけた時でも、もしかすると向こうからやってきていたのかもしれないと私は感じることがあります。
今までにたくさん講演をしました。そんな中で一度もやったことがないのが講演のために原稿に書いておくという準備です。もちろん準備はするのですが、その準備はない日の生活の中にあるので、本で読んだりすることが公園の準備ではないのです。私には変な癖があって、もし講演の準備を文章でまとめていたとすると、講演ではそのことを話さなくなってしまいます。もう準備の段階で終わっているというのか燃焼し尽くしてしまっているので、今更そのことを血用州の皆さんに話す必要なんかないと考えてしまうのです。
講演もその時は話す内容は向こうからやってきます。講演のテーマはあらかじめ出されているものですが、テーマにフォーカした話をしたとすると、ほんのわずの時間で終わってしまいます。自分予め、これとこれを話そうと決めた話です。情報的な話は短く済ませることができます。本からの引用をたくさんして、箇条書き的にまとめたものを読み上げるのならせいぜい5分とかからないかもしれません。
講演というのは、特に私がしたい講演はそうした情報収集のためにするものではなく(そういう講演もありますが)、話を聞く楽しみが中心です。話をするというのは問題の確信に回り回って辿り着くというのが醍醐味なわけで、5分の話などは後に何も残らないものです。インスタントラーメンやカップラーメンに熱いお湯をかけて3分待って夕食を済ませるようなものかもしれません。
話をしているうちに向こうのほうが私の気持ちをだんだんわかってきて、話を作っていってくれます。私としてやる子はなんなのかというと、話の邪魔をしないことです。実は自分で話をしているのですが、自分でもしっかり自分のなすしていることには耳を傾けているのです。私がこうした体験を重ねているときに、音楽の聴き方が変わってきました。演奏している人が楽譜通り弾いているだけか、自分でも自分の弾いている音を聞いているのかのの違いがわかるようになったのです。もちろんどちらも楽譜はしっかり頭に入っているのですが、「私が弾いています」という姿勢から「私通して向こうからくる力に任せ音が流れています」という感じです。向こう任せという言い方は小説家の泉鏡花がよく使っていたものです。あらすじと登場人物が決まったら、あとは向こう任せで書く、と言う風に、小説のできるプロセスを話していました。
私も及ばずながら、講演は向こう任せでやっています。無責任なように受け止める方もいらっしゃるかもしれませんが、私の経験からすると、そのように話した方が深い話ができるものなのです。深いと言うよりもよくまとまった講演になると言うことかもしれません。自分で考えたことをまとめようと話をしていると。話というのは兎角ずれることのあるものですから、どこかで辻褄が合わなくなったりしてしまうものなのです。
向こうがなんなのか、よく考えるのですがね今もってなんだかわかっていません。私の潜在意識のようなものなのかもしれませんし、血用州の中にある雌雄段位式のようなものが私から話を引き出しているのかもしれなと考えるのですが、わかりません。そうした経験が重なると、自分で意識していることが本当にわずかなことだと気付かされます。
とにかく私たちの体というのは私たちが意識しなくても働いている無意識の、潜在意識の塊です。どんなに感謝しても足りないくらいです。講演を良くするためには体づくりはとても大きな準備です。一冊の本を読んで知識を集めるより、心地よい運動で体をほぐしながら体力づくりをする方が、実のある準備と言えます。
体が喋っているので、頭が喋っているのではないというのか、今までの講演を振り返って言えることです。体に任せると、向こうからやってきます。ローマの格言が言うように「健全な精神は健全な肉体にゆどる」そのままです。
講演を自分の健康と置き換えてみると、頭で健康を管理している人のように健康管理はできないのです。そもそも怠け者で飽きっぽい方でから、頭で決めても体が続けてくれないのです。かえって体が欲しているものを体に取り入れてあげいる方が、頭で無理やり整理するより自然ですし、何よりも体と対話している感触があって、かえって体にいいことをしているような気がしています。やはり向こう任せのようです。
頭で考えたことはこっち任せということですから、結局はエゴを大分しているようものなのでしょう。私のエゴの押し付けと言うことです。
自分の体に恋をするのが一番手っ取り早いようです。
2025年4月29日
ドイツの詩人、クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩の中に、目標を持たないようでは人間ではないと言った内容の詩があります。目標に向かって生きるのが最も人間的という解釈に基づいているのでしよう。ドイツの人たちは概ねこの考え方が好きなようで、この詩をいろいろな機会で引用していますが、私は違和感があって好きになれない詩です。クラーク博士が言ったBoys be ambitous、少年よ大志をいだけのようなものでしようか。ああなりたい、あれが欲しいというような目的意識で人生を生き抜くことを多くのドイツの人は良しとしているようです。考え過ぎかもしれませんが、目的のためなら手段を選ばずということが正当化されてしまいそうなところが少し怖い世界です。
私は目標や目的に向かってとは別の生き方をしてきたようです。向こうからやって来るものに身を任せるというスタイルです。週末の野菜市に買い物にゆくと気に入ったものを自分で選んで買う人がいますが、私は、これくださいと言ってお店の人任せで買ってきます。騙されて元々と思っているのかもしれません。かえって一番いいものを選んでくれていたのかもしれません。
若い時のことを思い出すと周りには一生懸命自分がやりたいことを見つけ、それに向かってガムシャラにやっている人もいました。もちろん受験勉強などもその一つです。それはそれて見ていてスカッとしていた記憶もありますが、私には無理でした。好きなことをやってのんびりしいるか退屈していたのですが、それでも自分に必要なものは向こうのほうからやって来るようなきがしていました。真剣に探したりするとかえって何も見つからないような気がしていたようです。
何もしないで棚からぼた餅風に口をポーンと開けて待っていれはいいのかというとそうでもないのです。それでは向こうから来ても素通りしてしまうのです。これではもったいないのです。自分が好きなことは夢中にならないとダメなようです。ただ好きと言っても本当に好きなのかどうかはあまり考えていませんでした。気まぐれなわがままな選択のことが多かったようです。
ただガツガツというのは苦手で、バーゲンの時などに人だかりの中を我こそはと品物をかき回している人の中には入れませんでした。でも残り物には福があるもので、人の波が引いた時に行くと気に入ったものが安価に手に入ったりしたものです。。
現代社会は安定した人生設計をするよう考える傾向が強いです。その人のため手段としていろいろな保険に入るというのがありますが、ドイツ人は統計的に見て保険のかけすぎが指摘されています。何にでもたくさん保険をかけます。それも目標達成の一つなのかもしれません。私の目からするとどこかに大きな不安があることの裏返しのように見えるのですが、何にでも保険をかけて、押し寄せてくるかもしれない災害から身を守ることで安心を買っているのです。保険は唯一の安心材料なのかもしれません。宵越しの金はモタねぇ、なんて江戸の人のような考えは想像を超えたものに違いありません。自分で自分のこれからの人生を決めておかないと安心できないのです。向こうからやって来るなんて考えるのは、そういう人たちからしたら全くもって無責任な生き方にしか写らないのです。
そこには当然生死感も関わってきています。死ぬことをどのように捉えるかで人生は変わって来るからです。もちろん若い時には死ぬなんてまだまだ先のことと考えていますから、死が人生を左右するなどとは考えにくいのでしょうが、人はいつかは死にます。必ずです。死ぬまでに一旗あげて後世に名を残そうなどと考えている人もいるはずです。そこにはっきりした目標が必要なのでしょうが、どこからその目標を持ってきたのか知りたくなります。
思春期前に子どもの中に突然「自分はこうなりたい」と衝動的にビジョンが心の中に湧いて来ることがあるようです。これなどはどちらかというと、やはり向こうからやって来るようなものを感じます。周囲の大人たちには「将来こうなりたい」と言ったりしているだけですから、その子どもの心の中には気がつかないでしょうが、それは親とか環境から言わされたこととは違うものです。
いま私は、トロイの遺跡を発掘したシュリーマンという人のことを思い出しています。彼が毎晩寝ときに聞かされギリシャの神話の世界がどうしても単なるお話に過ぎないと直感したことで、偉大な発掘につながったのですが、向こうから来たお告げのようなビジョンに導かれた一少年の話をワクワクして読んだことがあります。もしかすると、今の子どもたちにも潜在的に眠っているものではないかと思っています。それを壊さないような教育が将来に望まれる教育かもしれません。