2021年7月26日
倫理は道徳と混同されますが私は違うものだと思っています。
道徳はモラルと同じ意味で倫理の実践だと見ています。倫理は形而上的な理念のもの、つまりはまだ形を成していないものと見ています。
道徳、あるいは戦前の修身で考えを進めてゆくとどうしても「すべきである」という言い方が頻繁に使われるようになり、挙げ句の果てが「・・でなければならない」という押し付けがましい強制的な態度となってしまいます。大抵のストレスの原因です。
私の若かった頃の学生運動は、いわゆる左翼系の活動家の人たちの激しい演説が至るところで聞かれたものですが、その時の常套文句も「すべきである」で、その繰り返しにうんざりしたものでした。それを耳にするたびに、左翼の母体の共産主義もある意味では道徳・修身の延長なのだという確信の方向に向かっていったものでした。
私にはいかなる「すべきである」も結局は洗脳行為につながる危険思想だと考えています。そこから半ば必然的にカルト集団が生まれるからです。
このような話をするたびに登場するのがオーム真理教という、サリン事件で名前が知られるようになったカルト集団が持ち出されますが、オーム真理教は殺人事件を引き起こしたために社会的に激しく非難・攻撃されていますが、そうした社会問題にまで発展しないで存在しているカルト集団は数限りなく存在しています。カルトまでゆかないまでも他人に何かを強制する姿勢は人間が集団を作るときはどこにでも見られます。
共産思想で言われていることは、言葉尻だけ捉えると正しいことのように見えるのですが、実際の活動を見ていると、人々の間で不必要と思われる上下関係が蔓延っていたり、上から目線という居心地の悪い空気が漂っていたりと、理想と現実のギャップを激しく感じるのは不思議です。
「すべきである」を私たちの生活から駆除したいものです。そうすればまずは自分自身に対してもおおらかに成れるのではないかと思うのです。
日本では「今日の仕事を明日まで伸ばすな」ですが、アラビアでは「明日でもいいことは無理して今日することはない」となります。この二つの考え方の間をあっちに着いたり、こっちにきたりとしていると、何かいいアイデアが浮かんできそうな気がします。
人生には損得なんてものはないですから、のんびりやってもいいし、きっちりやってもいいしと、自分に対しても他人に対してもおおらかになれたら、倫理の世界を遊んでいることになるのかもしれません。
2021年7月26日
もう飽きるほどユーモアについては書いてきました。今日も思うところがありユーモアについて書きます。
三十代で体を壊した時、聖書の福音書を繰り返し読んでいました。日本にいるときに牧師の友人が四冊の小さな本をくれたのですが、それは一つ一つの福音書だったのです。
それまで見向きもしないでいた本ですが、こういう本を読むいい機会だと読み始めました。一冊読むと次の福音書という具合に、四冊を読み終わるとまた始めら読み始めそれぞれを四回づづ読んだところでやめました。やめた理由ははっきり覚えていませんが、何となくお腹がいっぱいになったような感じで、これ以上読んでも楽しさを見つけられないと思ったのだと思います。
福音書には実に病気直しの例が頻繁に登場するのに驚きました。だからと言って自分の病気にいいい影響を直接感じていたわけではありません。初めは聖書の言葉に慣れるのに難儀しました。何となくよそよそしくて、血の通った文章とは思えなかったのです。読み進むうちに慣れきて違和感は無くなりましたが、最後までぎこちない文章だという感想は持つ続けていました。
当時気になったのは聖書の中に笑いがないことでした。もちろんユーモアというものもなかったように記憶しています。宗教というのはこういうものなのかと、初めて真剣に聖書を読んでわかった気がしました。聖典と言われるものは、キリスト教に限らずよく似ていると思います。つまりユーモアを語らないということです。ユーモアはご法度のような扱いを受けているようです。
ユーモアという言葉は歴史的には古くから存在しているようですが、精神性についての言葉ではなく、湿り気、潤のことを言っていて、気質が生まれる原因になっている体液の種類のことなどですから、今日のユーモアとは基本的に違います。
今日のユーモアは近代、現代の新しい発見によるものだと思っています。発見者は知られていません。一人というより、時代の流れの中でユーモアの必要性に気づき、その大切さを感じる人が色々なところで同時に出現したと言ってもいいようです。ともあれ、社会が真面目に傾き息苦しくなるのに耐えられないところでユーモアが認められたのでしょう。精神性としてのユーモアは存在を認められたのです。
しかし人間とは真面目な存在物のようで、なかなかユーモアを本気で認めようとはしないのです。ユーモアには緊張をほぐすような働きがあるので、真面目に物事を考えている人たちは、ユーモアの巧妙を知りません。よく茶化していると勘違いされるものです。ユーモアなんて言っているのはいい加減な人間だと勘違いしている人もいます。
フランスの数学者でポアンカレという人がいて、偉大な発明をしている大学者でありながら数学的直感などということをいう変わり種としても有名です。ある時馬車に乗ろうとして、馬車に足をかけた時に今まで解けなかった命題が解けたそうで、ポアンカレはどこかに直感が降りてきそうな精神的資質を持っていたようです。またある物理学者はよく友達を呼んでは卓球をするのだそうです。下手の横好きの卓球ですからどっちが勝つなどという試合形式の卓球ではなく、ただただ相手から来た球を打ち返すことを永遠に続けているだけの卓球でした。しかしその全く他愛のないピンポンの動きの中で、彼はいくつもの偉大な発見や発明をしたというのです。
ユーモアの一つの特徴は合目的性から外れているということだと私は思っています。混沌とした状態の中にあるものかもしれません。ある目的のために何かをするというのはもしかしたら古い精神的な姿勢なのかもしれません。訳の分からな、一見無意味に見えるような状態の中に、とんでもない空間が存在しているのかもしれないのです。それはキリキリと眉間に皺を寄せていては生まれないもので、無邪気にピンポンをしているような時に作られる真空状態の空間かもしれません。
ユーモアとは直感に限りなく近いもののように思えてきました。
2021年7月21日
繰り返しことを教育者がいうと説教臭くなりますが、繰り返すということ自体、私たちは案外楽しんでいるように思うのです。
同じ本を何回も読む人がいます。二回目が一回目より新鮮だったという経験は私だけでしょうか。内容的には、とりあえずは知っているのですが、説明できないですが、どこかに知らないという感触があります
同じ映画を何回も見る人がいます。テレビでは再放送というのもあります。再再放送も、再再再放送もあったりしますから、繰り返すという習性は意外根強く私たちの生活に結びついたもののようです。
繰り返すことの醍醐味とは別に一回きりという緊張感も取り上げたいと思います。
今日では有名な音楽家の音楽会に一度ならず、二度、三度と接する機会は珍しくありません。その演奏家の録音もありますから何度も聞けますが、百年ほどを遡ると世界の状況は今とは全く違うものだったのです。レコードが始まった時期で、まだまだ普及しているとは言い難い時代でした。一生に一回しか聴けない音楽家の演奏というのがあったのです。田舎の小さな街での話ではなく、都会でも一回きりということは珍しいことではなかったのです。一回しか聞けない演奏会に行く時の緊張感は、今の人がレコードや動画で知っている演奏家のコンサートに向かう時のものとは違っていたに違いありません。
ということで、私たちは繰り返しの醍醐味と一回きりが持つ醍醐味の間を生きていると言えます。
話を少し別の方に向けます。
輪廻転生と一回きりの人生とをどのように折り合わせたらいいのでしょうか。今生が良くないのは前世での頑張りが足りなかったからだとか、今生はダメだけれど来世頑張る、なんて考えるのは輪廻転生を自分の都合で弄んでいます。私は転生はあるものだと信じています。しかし同時に一回きりの今生という考え方を切り離してはいません。どちらも私の人生を考える上で大切な考え方です。そして両方を持つことで何の矛盾も感じていません。
転生があると考える方が豊かです。人生は一回やったからってわかるようなものではないからです。人生は形式的なものではなく中身の深いもので、人生というものをどこまで深めたかが問題になるものだからです。身分や成功談は形式です。
さて一回きりの人生という考え方ですが、実はとても緊張感のあるものなのです。ありがたいことに前の人生の記憶がないので、今という感触は、一回きりの人生と考える時にこそリアルなものになります。一瞬一瞬を生きているというスリルは、過去生があったからとか来世があるからと油断しているとそばを通り過ぎてしまいます。今を生きるという緊張感は一回きりの人生という観点から生まれるものです。
人生を一回きりでいいと考えるのは人生の大きさに気づいていないからです。多くの人が、今生で大きく成功することを期待しているようですが、それでは表面的で形式的な人生しか見えていません。人間として社会でどのように機能したのかは形式に属しています。人生は深くしかもスケール大きなものです。私にはそう見えます。ですから一回生きただけで済むなんていう考えは横着そのもののように見えるのです。
私は死ぬ時には、早くまた生まれたいと思って死にたいです。ただいつ死ぬか分からないので、今から準備しています。本気で言いますが、私はまた生まれてきたいです。今生がつまらなかったからではありません。今生を十分楽しみました。また生まれたいのは今生以外の人生にも興味があるからです。でもその楽しみは自分の都合でどうにかなるものではないのです。
まず今生をしっかり生きます。今生で人生と向かい合う時は、今を充実させることに努めます。それが今生を生きている中で一番大事なことのように思えるからです。