2021年9月1日
臨場感とはそもそも、その場に居合わせているかのように感じることで、オーディオの世界でよく使われ、ステレオ装置から聞こえてくる音があたかもコンサートホールにいるかのように聞こえる時、臨場感のある音などと言います。
私が言いたい臨場感もやはり同じようなものですが、擬似体験という本来の意味からは少し外れたものかもしれません。文章と臨場感は普通には無縁のものです。普通には感動と言っていいものかもしれません。
一緒にいて、気持ちが落ち着く人と、そうでない人がいます。赤ちゃんの場合は実に正直で、抱かれるとすぐに反応します。落ち着かない人の時にはすぐにムズムズし始め、泣き出したりします。
また同じ場所に一緒にいても、印象が薄い人がいます。その人がその場で存在感が薄いとかインパクトがないわけではありません。あくまでも私にとつてということです。言葉を交わしても、隣に座っても、何かが馴染まないような人というのは、結局はその人と出会っていないのだと思います。人と出会うというのは、名刺交換をするとか、物理的なことではないようです。
ずっと一緒にいたいと思える人に時々出会います。どうしてそう感じるのかと問われても答えになりません。
人を好きになる時には、異性であれ同性であれ、そこには特別な空気が生まれます。そばにいてくれて嬉しくて仕方がないのです。その人を理解しているとかいないとかのレベルではなく、嬉しさの中にすべであります。さらにいうと、恋した人と一緒にいる時、その空気は頂点に達しています。シェークスピアはそれを、恋は盲目と呼んだのですが、恋には絶対的な充足感が伴うものです。その充足感が、私が言いたい臨場感です。やはり感動とは少し違います。その人と人生の中で同じ舞台の上に立っているような感じです。
少しはわかっていただけたでしようか。
生きることがシステムの中で機能するだけのようになると、私たちの生活から感動というか、臨場感がなくなってしまいます。機能していることで満足している人は、システムが絶対でシステムに隷属しているので、感動のような自主的な行動から遠ざかってしまいます。システムに恋をしてしまったと言ってもいいのかもしれませんが、システムは社会的地位とか、収入しか保証してくれません。でもそこに恋する人もいるわけです。そして全てがシステム化し、合理的になってしまえば、人間よりも機械の方が効率が良くなり、人間は余計なものという事になってしまい、お払い箱です。なんとなく寂しい結末が待っています。
そういう環境では、人が近くにいても、そばにいる人間にすら機能以上のものを期待しなくなってしまい、感動や臨場感のない人生になってしまいます。そうなると人間性などいうものは余計な邪魔をするもの、ノイズのようなものですから、消そうと努力します。
私は人間性の方に興味を持っています。人間性は何かというと、名刺を作る際に、肩書きのように並べられないものとでも言ったらいいのでしょうか。簡単にいうとそれでは食べてゆけないものです。人間性は経済力が支配するところでは無力ですから、今の経済中心の世界ではなんの役にも立たないものとなり、そこでもやはりノイズのようであり、ゴミ箱行きなのです。
人間性は機能社会、システム社会、経済中心社会で生き延びることはできないと悲観的になることもありますが、しかし私は人間性を信じています。人間性は確かにそこでは生きづらいかもしれませんが、耐え忍んで生き延びていると信じたいのです。そして経済を中心とした社会、システム優先の社会の片隅で、次の時代を待っているのだと思います。
機能、システム、合理性に浸ってしまった社会から抜け出すのは大変です。この三本柱が権力となって、権威として君臨しているからです。しかしそれが滑稽に見える日がいつかくるように思えてなりません。
2021年8月30日
最近私のブログの立ち位置を考えます。
別に新しいことを皆さんにお伝えしているわけではないので、今日的需要からすると価値のないものに見えます。
なぜそう考えるのかというと、YouTubeを見ていると、結局はインフオメーションの伝達機関に化していると感じるからです。インフォメーションがどうでもいいというのではありませんが、もっと大事なことは、そうしたインフォメーションを活用しながら自分で考えるということだと思っています。
若い頃、ある人から新聞の読み方というのは、九つの違う新聞を読んで、十番目に自分の考えを持つことなのだと言われたことがあります。イギリス人の新聞の読み方だと後で知りました。もちろん今日のプロパガンダに徹してしまった新聞、メディアのあり方からすれば、そんな考えは時代錯誤で、意味を持たないものになりますが、要するに大切なのは情報は情報だということをはっきり弁え、それを鵜呑みにするのではなく、という基本的なことは時代が変わっても十分通じるもののようです。
私もブログに情報的なものを時々書きますが、その時にも、読み手の思考を刺激するものであって欲しいと願って書いています。
読みながら考えていただきたいので、私の講演のように結論がどうなのかとは一切無縁です。時には尻切れトンボだと言われてしまいますが、初めからそれを知っての上です。
しかし読み手に考えてもらえるように書くなんてできるものなのでしょうか。ただ結論を出さなければいいというだけのことではないわけで、まずは読み手をワクワクさせなければなりません。しかも読み手が五十人、百人といるとなると、焦点の絞り方が難しくなります。
とりあえずは自分が書きたいことを書くという事に決めています。それを、ある程度は、他の人が読んでも自分の問題だと感じていただけるように心がけますが、基本は自分の描きたいことです。とは言いながらも、読み手が自分が抱えている問題にオーバーラップしていただけたらと願っています。
自分が書きたい事をというと、とても主観的なことを書いていると思われがちですが、確かにそうした一面は否めませんが、意外と私個人が興味を持っていることを他の人も似たように感じていることがあるものです。私の講演経験から言えることです。大切なのはその主観的な内容を具体的に、できるだけリアルに書くことで、そうすると他の人にも伝わり方がいいようです。私はこれを文章における「臨場感」だと思っています。そうだそうだと同調できるものです。
私の祖父は大の野球好きで、ナイターがある時は決まってラジオで、91歳でなくなるまで聞いていました。テレビで見るより、ラジオの実況の方が野球がよく見えると言って、テレビの時代になってもラジオで野球を楽しんでいました。今思うとこの臨場感だと思います。自分でも野球をやっていたので、アナウンサーの言葉から色々と想像を膨らませていたのかもしれません。祖父に詳しく聞いたら、テレビの実況は映像に頼りすぎでいると言ったかもしれません。
百聞は一見に如かず、と言いますが、言葉の方が映像以上に想像力を刺激するというのも事実のようです。
文章の世界でいう名文は、この臨場感を持っているように思うのです。読んだときに、まるで自分のことのように感じさせる力です。外国の話だとか、源氏物語のように千年以上前のことでも、力のある文章は臨場感を持っていますから、時空を越えて読者に語りかけます。
翻訳で外国文学を読むのは、日本語で書かれたものを読むのとは相当違います。なかなか文章に馴染めないで、途中で諦めたものがずいぶんあるように思います。英語の先生が、外国文学をたくさん読め、それも英語の力をつけるには役に立つ、と言っていました。翻訳の日本語は表ヅラは日本語でも半分はまだ原文なのです。翻訳調というのは半分は外国語だということだったんです。
今シュタイナーの普遍人間学を訳していますが、この問題に常にぶつかっていて、翻訳調を克服して、本意を正確に日本語として伝えたいと願うのです。それが臨場感につながると思うからですが、なかなか納得のゆく訳になってゆきません。内容を伝える事に主眼をおけば、箇条書きでいいわけですが、文章として読むことでイメージが膨らみ、インスピレーションが得られるのだと思っていますから、臨場感のある文章にしたいのです。講談や落語でも臨場感があるかないかで同じ話でも全く違ったものになります。
臨場感のある翻訳が提出できたらというのが今の私の願いです。
2021年8月4日
遅々としてですが進んでいます。
当初から想像していたことではあるのですが、ドイツ語で言われていることの意味を伝えることと、日本語として熱を持って読まれる文章にするという、水と脂のように相入れないもどかしさの中にいます。
原文に囚われていると、日本語はとてもお粗末な文章になります。立派な翻訳調ですから、読んでいてよそよそしく感じます。
正確に意を汲んだという状態から始まり、だんだんと日本語にしてゆくと、日本語ではこうは言わないというものが何度も登場します。いわゆる直訳的な文章のまま放っておくと、読んでもよそよそしいもので、内容に臨場感が乏しい文章になります。かといって何度も推敲したからといって必ずしもいい文章になねという保証はないのです。
大事なのは文章が日本語であること、日本語的ロジックに収まっていること。それ以上に、文章同士の流れが不自然でないことです。文章間のロジックとでも言ったら良いのかもしれません。日本語だけ書いているときには出会うことのない、異文化との交渉です。私は文章の意味を文章における知性と考え、文章同士の繋がりは意志のような気がするのです。文章の意味と文章同士の繋がりがともにバランスよく収まらないと、文章を読む楽しみは半減します。
翻訳して、なんとか文章同士も繋がったと思ったものでも、次の日に読むと情けなくなるくらいがっかりするものもあります。人間ですからその日その日によって気分が違います。気分に振り回されるわけではないですが、やはり気分は大きな力です。
例えばワインの品定めをする時など、やはり気分が大きく作用します。絶対美味しいワインというのは無いわけですから、食事とどう合わせるかも大切ですが、その日の気分も結構美味しい不味いに影響するものです。
同じように絶対にいい文章などないので、文章の良し悪しにはムラがあるので、昨日のいい文章が今日もいい文章ということはないのです。その日の気分で書くこともあります。同じ文章でも昨日見えた景色と今日見える景色が同じでないことがあります。「なんでこんな文章で訳したのか」と自分の文章センスを疑ってしまうこともしばしばです。
翻訳の文章だけでなく、このブログの文章にしても、昨日書いたた文章を読んで、腹を立てていることもあるのです。自分で書いた文章がまるで他人が書いた文章に見えるのです。
しかし言葉はロゴスです。ロゴスですから数学とも共通するものがあるはずなのです。早く自分の言葉の中に数学的なものが生まれてくれたらと願うのですが、難しいものです。
翻訳のことを最後にまとめると、語学力、つまり外国語を読み取る力と、日本語の文章力との比率を考えてみました。3対7です。日本語で最後まとめる力が乏しいと折角正確に訳しても、貧相なものになってしまうのです。
と言うことでまだまだ戦いは続きそうです。