二つの声、男性の声と女性の声

2021年4月9日

こんなテーマで話すと、最近のジェンダー騒動に巻き込まれてしまうかもしれないけれど、これは主義主張の流行に左右されない事実なので書いてみます。

さて声は思春期に変化します。声によってほとんどの場合は性別を明確にできます。

男性の声は一オクターブ低くなるのではっきりその変化がわかります。しかし女性の声も音の高さが変わらないので気付きにくいですが、深くなっています。少女合唱団の声と、思春期以降の女性の声からなる女性合唱団は全く別ものです。少女合唱団の声は薄っぺらです。もちろん少年合唱団と成人した男声合唱団ほどの違いではないですが、よく聞けば違うのです。艶があり膨よかです。

声が思春期に変わるというのは、声が性の誕生、生殖理能力から影響を受けているからです。医学的にはホルモンの違いで説明しています。

これは動物の観察でも明らかです。我が家の庭の池にはついこの間、どこから集まったのか、三十匹以上のカエルが集まって三日間、真夜中の大合唱を披露してくれました。そろそろ鎖のように連なった卵が見られ、そこからおたまじゃくしが何百と所狭しと泳ぎ始めると思います。こんこんギツネという言い方がありますが、この「こんこん」はまるで枕詞のように狐について回っていますが何んなのかをずっと知らずにいました。ある真夜中のことです。二日続いて降った雪が積もっている上に満月で、真夜中とはいえ庭が明るく照らされてよく見えたのです。偶然に目が覚めて庭を見るとそこに二匹の狐が戯れていました。その二匹はしばらくすると茂みに隠れて見えなくなりました。すると狐が見えなくなったところから「こんこん」という声が聞こえてきたのです。この二匹はオスとメスだったのです。そこで初めて「こんこん」は狐の交尾に由来していることだと知ったのです。鹿も交尾の時にメスが鳴き声を出します。森と畑とが境界している所を散歩していた時のことです。少し離れたところに二匹の鹿が見え隠れしていました。しばらくすると見えなくなって、そのあと大きなうめき声が聞こえてきたので、「あれはなんですか」と土地の人に聞いたら、「交尾だよ。メスが泣くんだ」と教えてくれました。

 

思春期以前の声は肉体の構造が作る単なる響きでした。息が声帯を通ることで作られた物質的なものでしかなかったのです。ところが、思春期以降は生殖能力の誕生によって、男であることと女であることに分かれたことで、声に別の次元からの能力が加わります。生殖能力というのは自分以外の生命を生む力のことです。言い方を変えれば一個の個体としての自分を超えて生命を未来に繋げてゆく能力です。声はこの変化を如実に反映しているのです。変声期以降の声には、声帯を通る空気の中に新たな生命意識が宿っているということです。ある歌い手はこのことを声に霊性が宿ったと言いました。

男であること女であることを生きるという生き方の始まりです。男である、女であるというのは、物質的存在を超えた精神的なものであり、霊的なものでもあるのです。この二つは全く違う生命活動をしているのです。そしてこの違いから新たな意味が生まれます。この間に緊張とよべるものが作られたのです。この緊張の中から恋心が芽生えます。性欲も芽生えます。恋愛し、結婚し、家族となって膨らんでゆきます。こうした内容を思春期以降の声は響きで表しているのです。声は男性の場合は低くなり安定し、女性の場合は深まり、平面的な薄っぺらいものから立体的な膨よかなものに変わるのです。変声期がなかったらと思うと、声によって作られる響きの世界が幼稚な薄っぺらなままで止まってしまい、そこでは生きる喜びの表現である歌は生まれなかったかもしれません。歌は男である、女であることの間の緊張から生まれたものといってもいいものなのです。歌には生命の悦びが凝縮しているのです。

変声期の声変わりが落ち着くと初めて声の中に人格が響く準備が始まります。

 

 

 

 

 

 

美しい日本。雪と紅葉の話。

2021年4月8日

日本に簡単に飛んでゆけない今、日本への思いが増幅します。特に最近は日本各地を講演会という形で訪れた三十年を振り返っていました。

外国に移住した人間には、故郷への想いが何十倍も強くなります。ドイツではアメリカに移住したドイツ人たちはドイツに居るドイツ人以上にドイツ的に生活しているといいます。特に民族特有の生活スタイルには固執しているようです。

ドイツにもう四十四年住んでいると、日本にずっといる日本人とは違った日本人になってしまいます。だからと言って、もちろん日本への秘めた憧れは心の中にあっても、私の場合はより日本的になったというのとは違うようです。日本の生活スタイルにこだわることもあまりないようです。

 

今走馬灯のように日本各地で目にした景色が浮かんできます。人間は死ぬ時に人生を走馬灯のように逆行するといいますが、私の走馬灯は逆行していないので、まだ生きていられそうです。

ここ二、三日急に北から寒波が押し寄せ、雪景色に変わりました。せっかく咲いた果物の木の花が雪に埋もれてしまっているのを見るにつけ、農家さんたちは今年もまた大変な被害を被ってしまうのかなぁ、と気になります。

黄色に咲き誇ったレンギョウが雪を被っているのはサプライズでした。それを見ていて思い出した景色があります。南北海道でのことです。露天風呂で紅葉に雪が混じっている景色を思い出していました。今まで体験した露天風呂の中で一番寒い露天風呂でしたが、思い出の中ではとてもフレッシュな印象として残っています。雪混じりの紅葉が湯船からの湯気の中で揺れていました。

十和田で講演会があったときに、青森市からきてくださった方に誘われて、秋の奥入瀬を歩きました。この世の景色とは思えない絶景でした。「なんでこんなに綺麗なんだ」と以下言いようがありません。奥入瀬に入る前に車から見た八甲田山の紅葉はこれまた見事で、しかも薄っすらと雪を被っていて、それが真っ青な空にくっきりと浮かんで見えた時は、車を運転してくださっている方に「こういう景色をどう描写したらいいのでしょう」と思わず聞いてしまいました。彼の返事はそっけなく「そんなに綺麗ですか」というのもコントラストがあって印象的でした。

紅葉の話が出たついでに紅葉が綺麗なところをもう一つ。弘前城跡の桜の紅葉は、赤い色が腐ってしまうのではないかと思うくらいの深々とした赤でした。色が腐るのではないかという体験は初めてでした。京都や奈良で見たもみじの紅葉は息を呑むほどの美しさです。特に私は錦の時の緑、黄色、朱色、赤が調和した美しさが好きです。その紅葉が紅葉の横綱だとして、弘前の桜の紅葉はもう一人の横綱です。赤がこんなに深くなるのを目にしたのは初めてでした。深紅という言葉がありますが、絵の具の深紅ではなく、生きた深紅でした。あとん何日かするとこの深紅が枯葉となってしまうのかと思つた時、自然の薄情さを恨んだ記憶があります。

 

春の、桜の季節に紅葉の話などすると季節音痴と言われてしまいそうですが、庭のレンギョウの黄色に白い雪の帽子が印象的で、それに釣られて紅葉と雪の景色を綴ってしまいました。

 

 

UFOごっこはつまらない

2021年4月8日

宇宙というとすぐにUFOが飛び出してきて、写真は本物かどうかなどが賢所されるわけだが、そんなの宇宙の入り口にも立っていないように思うのですが、私だけの戯言でしょうか。

宇宙に生物が住めそうな星がありそうだ、あるいは見つかった、という報道も、なんとなくおかしい。宇宙には現に私たち人間がいるのだから、他にいるに決まっているのではないのだろうか。こう考える方が普通だと思うのだが。人類が持つ宇宙観はどこかねじれている。

アメリカが六月にUFO研究の成果を発表するらしいが、あまり期待できるものは出てこないだろう。何かが押し付けられるだけのプロパガンダ報道ではないかと想像している。

UFOがどうのこうのというより前に、まずは宇宙観をしっかりしないければならないのではないか。つまり地球と宇宙の関係です。

 

私が持っている望遠鏡では土星がなんとか見えるので、個人的にはいつも太陽系が一番気になります。木星の四つの月が毎日違った位置にあるのをみていると、それだけでワクワクしてしまいます。そしてその月が全部地球の月のように木星に同じ面を向けていることを知ると、なんで同んなじことをやっているのだろうと、お節介を焼きたくなるのです。

地球の月がなぜ裏側を地球に向けないのかすら私たちの天文学、天文物理学は説明していないのです。UFOのことなんかよりもそっちの方がずっと知りたいです。そしてなぜ二十何年もの間人類は月にゆかないのだろう。月から来るなとでも言われたのでしょうか。このこともしっかり説明されたことはないように記憶します。基本的なことがUFOごっこで誤魔化されてしまっているように思えてなりません。

 

そもそも宇宙人はいるのでしょうか。彼らはどこからきているのでしょうか。私は案外近いところから来ているように思えてならないのです。例えば太陽系からです。案外たくさん来ているのかもしれません。近いですから。