またまた声のことです

2021年4月13日

声のことを書くとキリがないので、これで最後にします。

声はドイツ語でStimme(シュティメ)と言います。

語源は何かというとStehen(シュテーエン)です。立っているということです。

声にそっくりな言葉があります。樹木の幹で、Stamm(シュタム)です。

この三つの言葉をイメージの中で繋げてみてください。すると何かが見えてくると思います。人間として立っている姿が声です。それが私たちが目指す声です。

 

人間として立っている、それが声です。

生まれてすぐの産声はまだ声でなく声以前と言っておきます。産声は私たちが目指す声でないことは明らかです。

しかも赤ちゃんは誕生の時だけ産声をあげて、その後しばらくは静かです。

赤ちゃんはお母さんのお腹の中でお魚でした。羊水の中を半ば泳いで生きていました。誕生を機に陸の生活者になったのですが、産声はその変化の合図のようなものです。

声を考える時に結構深刻なのは、肺に溜まっている水を抜かなければならないということです。水の量は大変なものなので、相当の時間をかけて血液に混ぜ、腎臓を経て排出します。そしてそれによって肺が空気を吸ったり吐いたりする臓器になります。肺がだんだん本来のものになるにつれて声となって聞かれるものが赤ちゃんの口から出て来るようになります。それでもまだ声ではありませんから、「前声」と呼ぶことにします。この声は立っていない声だからです。赤ちゃんは寝たきりです。しばらくの間もハイハイなのでまだ立ち上がっていません。しかし成長は確実に立ち上がる方に向かっています。声になろうとしているのです。

 

私はこの時期の成長は基本的に全て立つこととの結びつきで捉えられると考えています。このことは私の講演録「感覚について 三子の魂」に詳しいので、ぜひ買って読んでください。ということでここでは触りだけにします。

感覚器官が機能しはじめます。初めはあかりが眩しくて明るいところではすぐに目を閉じたのですが、だんだん乳母車から見える外の景色を見るようになります。聴覚も初めは周囲で音がすると体をピクッとさせたりしていましたが、だんだん音に慣れると、音がどこから聞こえているのかがわかるので、音がした方を向くようになります。誰の声かもわかるようになってきます。この時期の成長は感覚器官に顕著ですが、基本的には立つ成長なのです。この時期は頭のところまで立ったのです。

そのうち首がしっかりしてきます。首まで立ったのです。

寝返りを打つようになると体の胴体まで立ったのです。

そして座れるようになると、腰まで立ったのです。

そしてハイハイが始まると、膝まで立ったのです。

そしてついに立ち上がる日が来ます。

その時は足の裏まで立ったということです。

そして体が立っていられるようになります。

その姿は木の幹が天に向かって立っているようなものです。

ここが声の始まりです。まっすぐということです。

 

赤ちゃんは歩きながら立つ能力を鍛えています。つまり平衡感覚、バランスです。歩きながらとはいってもただ歩いているのではなく目的に向かって歩き始めるのです。

実は喋りながら声を作っています。言葉に対して反応するようになると、どんどん言葉を覚えてゆきます。喃語からから言葉に変わってゆき、そこで声が鍛えられます。

声は、立つ力が歩くことで鍛えられるように、言葉を口にしながら鍛えられているのです。

赤ちゃんが立ち上がると、赤ちゃんから子どもに変わります。私はこう考えています。

そしてここからが声の世界の人となります。

 

これ以上詳しく述べると長くなりますから、先程の講演録を読んで、深めてみてください。

 

さて人間として立つということを違う観点から見てみます。立つというのは体ばかりではなく心もたちます。

例えば自信のある人はしっかり立っています。

喜びに溢れている人もです。

迷いのない人もです。

そこから聞きやすいのびのびとした癖のない声が生まれます。本当です。

俗にいういい声ということにこだわりすぎると、声を壊します。よく言われるいい声は、本当は作り声ですからです。作り笑いのようなもので自律神経に良くないと思います。

いい声などではないのです。

あるのは立っている真っ直ぐな声があるだけなのです。

 

オンライン講演の感想を読ませていただきました

2021年4月12日

昨日、二月二十三日のオンラインでの講演会の感想を主催者の方から送っていただきました。

その前にまず私の感想から申し上げます。

やってよかったという気持ちです。今回の試みは、今のコロナ禍の元ではある程度常識的なものですが、私の講演会は勉強会という体裁ものでないので、参加される方がいるのかどうかを心配しましたが、たくさんの方から申し込みがあったと伺っています。ましてや最新情報の提供でもないので、のんびりした雰囲気がどのように伝わるのかを一番懸念しました。そのために準備会の方達と三回にわたって打ち合わせをしました。

私の話は、講演の初めに言いましたように、答えがあるわけでもなく、しかも結論も出ない話です。基本的には皆さんがよくご存知のことばかりを話しているわけです。ところがそれはそれで独特の緊張の張りが求められますから、それがインターネットを通した時にどういうものになるのか、心配とともに楽しみでもあったのでした。

 

いただいた感想を読ませていただい限りでは、いつものように講演会の中を流れていた時間と緊張が皆さんに伝わっていたようです。話の内容は大抵それに伴ってついてきているものです。しかも暖かく受け止めていただけたようで、とても嬉しく、本当にやってよかったという気持ちになりました。

新鮮だった感想は、聞いていらっしゃる方たちが、自分の部屋で聞いているので、時には席をはずしたり、お茶をしたり、ゴロンと横になったりと私以上にリラックスしながら、参加していたことを告白してくださったものでした。でもそれが一番聞き方としてはいいのではないかと思っています。私も音楽会で狭い席に座ってじっとして聴くのが辛いことがあります。家で、レコードとかで、ゴロンとなって聞いている時の方が音楽が深く入ってきているような気がしています。

あのような状況のもとで感想を書いてくれる方がいるなんて信じられなかったのですが、三十名以上の方から温かいお言葉をいただきました。とても嬉しいです。

今回の主催者は時期を同じく別のオンライン講演をされたそうで、その時はとんど反応が感じられないということですから、私に送られたたくさんの感想を、私と一緒に喜んでいらっしゃいました。皆さんも頑張ってくださったのだと知り感謝しています。

改めまして、ありがとうございました。

 

最後に。

私自身はあの講演会の配信を見ておりません。

 

 

喋り声と歌声の違い。

2021年4月11日

歌は喋るように歌ってはダメなものなのです。喋る時の声と歌う時の声は全く違うからです。ここに歌が苦手ということを作る原因があるのだと思います。

ただ違うとは分かっていても何がどう違うのかとなると説明は案外難しいので、今日はこの辺から解き明かしてゆきたいと思っています。

私の周囲を見ていると歌う人と歌わない人がいます。歌う人種と歌わない人種があると言えるほど確固たる事実のようです。人種さべちのつもりは全くありません。

歌が大好きな人種はいつでもどこでも勝手に歌い出しますが、歌わない人種は頑なで絶対に口を開かないです。このくらい違うものです。学校の音楽の時間でも口はぱくぱくやっていても声にしないのがいました。原因はどうやら性格的なものももちろんあるのでしょうが、それ以上の何かがあると睨んでいます。呼吸です。息の使い方の違いです。

 

喋るとか歌うというのは基本的には何かを伝えようとしています。両方とも言葉の意味をめぐって喋り、歌います。しかし歌う時にはメロディーを歌わなければなりません。大昔は喋るときの言葉にもメロディーがあったことは知られていますが、現代人の喋りはメロディーから離れた、発音、アーティキュレーションだけの棒読みになってしまいました。歌はメロディーを処理しなければならないのに、喋るときは棒読みのような状態です。この違いが呼吸にするときに全く違う二つの世界を作るのです。

まず喋る時を見てみると、喋る時はほとんどの人が呼吸など意識しないで喋っています。ところが歌うときはしっかり意識しなければならないのです。深く、でも深すぎずに息を吸ってから歌い始めます。そうしないとメロディーに声が乗りません。呼吸を意識させられるということが、歌嫌いを作っているのです。

もう少し厳密にいうと、喋る時は息を前の方に出し、それを声にして言葉にします。歌う時呼吸は背中を流れます。仙骨を支えとして肩甲骨の間を流れる呼吸を声にして歌うのです。こうするとメロディーが声に乗りやすくなります。

毎日の生活では歌う時のように呼吸しないので、この息遣いは非日常的と言えます。この声は現実の雑多な社会生活とはあまり縁がなく切り離されていますから、会議や、討論会や、ブレゼンの時などは現実的な喋り言葉で喋らない状況では話が進みません。歌声はシビアな現実生活とは縁遠いものです。あえて言えば歌う時の息遣いは考えるとかコミュニケーションを取るとかいうよりメディテーションに近いものです。内面的なものと言えます。

ところが19世紀初頭に、歌声に異変が起きて、歌声が喋る声のように前に出てくる声になってしまったのです。しまいには張り上げるようになってしまったのです。この誕生は1830年頃のイタリアで起こりました。男らしさを強調した声の誕生です。ナポレオンの威厳を讃えるために生み出された声だったという人もいます。張り上げて朗々と歌うので、若き英雄の誇らしげな声というわけです。今日の男性歌手のほとんどがこの声です。

 

技術的なところを最後に少しだけ述べてみましょう。

高い音域をどのように歌うかということです。これは素人だけでなくプロも悩むところです。苦肉の策は声を張り上げるというものですが、張り上げると肉体的な力が加わってしまい声は荒くなります。これはこの時以来の声の世界に登場した一つの病気です。最近では訓練されたプロの歌い手たちにもこの声なのですが、この張り上げた声ほど、本来の歌声から遠いいものはないのです。高い音域は体の力を抜いた時が一番出しやすく、その時は前に出すというよりも体の力を楽にして引くようにすると綺麗な高い声になります。

ということで、本来の歌声というものは今日ではほとんど聞かれなくなってしまったといっていいのです。

そこで私はいつもアルフレッド・デラーとレオ・スレーザークにこだわるのです。