2021年4月5日
中心点を決めて、その点を半径として円を描いてみてください。こんなシンブルな図形は他に見ることはないでしょう。でもこのシンプルさの中に世界の全てが、宇宙の全てが納められていると思っています。宇宙の中の自分、そしふ神の中の自分がです。
シュタイナーが教育の本質を伝えようとしたとき、治癒教育講座の講演の中での話です、教育者が朝と夜、メディテーションをするように薦めています。そこで使われたものも、この図形を言語化したものでした。朝は「私は神様の中にいる」、夜は「私の中に神様がいる」となります。
神様と私は二つで一つの不思議な関係です。この二つを一つにする力、意識、エネルギーはどこにあるのでしょう。シュタイナーはこの力こそが、この意識こそが教育者に必要なものだと感じていたのだと思います。
そして、私たちがシュタイナーを持って理解できるようになると、ここにシユタイナーが考えていた教育の本質を読み取ることもできるはずなのです。
ただまたまだ自分に拘っているうちはまだまだ遠いい話ですが。
「我思う故に我あり」はヨーロッパを代表する考え方です。
私は個人的に、私という存在、ここでは我ですが、それが思考の目的になるというのは片手落ちだと考えています。自己満足を出ないもののように思うからです。自分が居るかどうかを問うのが西洋の基本なので、この箴言は今日まで生き続けました。
東洋的に見ると、特に日本的には、私という存在、我は、存在させられている、存在させて頂いているとなります。神様によって存在させられているということです。お陰様ということです。
ある仕事についているとき、仕事をさせていただいております、という言い方をしますが、これは西洋的には考えられないことです。「私はある会社のマネージャーをしている」、「うまくやっている」、「業績が私の時に飛躍的に伸びた」とは言いますか、「マネージャーをさせて頂いております」なんてなんて口が曲がっても言わないです。この発想がないので言葉にしようがないのです。苦労してなんとか通じるように訳せても聞く方がちんぷんかんぷんで通じないと思います。
この違い、相当基本的なことだと思っています。
日本人の「させていただいております」はヨーロッパの言葉に訳すことができない言い回しです。「させて頂いております」という発想は、一見すると受け身ですが、単なる受け身ではなありません。ただの受け身だったら、「させられている」となります。これはヨーロッパの言葉に訳せます。しかしその先は無理です。絶望的です。ただの受け身ではないからです。
ではなんなのでしょう。
ここには神とともにいるという意識が働いているのではないのでしょうか。神と自分、人間との関係がともにいるという意識だからです。神と自分は別々のものではないという基本です。元々は一つで、いつかまた一つになるものといったらいいのかもしれませ。
日本的に言うと、あるいは昨日の続きで縄文的に言うと神と人間は宗教的に契約で結ばれているのではないのです。宗教以前があるといったらいいのかもしれません。
西洋社会は隅々まで契約で成り立っている社会です。政治は基本と的には契約を元に成立しているものです。新しい大統領になったり、新しい政府になっても基本は同じで、新しい契約を結ぶだけの話しです。このような契約社会のあり方が日本人にはとても苦手で、政治的に見ればいつもすったもんだを繰り返しています。特に外交問題では苦手が丸出しです。これは永遠に続く問題かもしれません。あるいは世界に精神的大革命が起きて、契約ではない関係に気づくことになれば、日本的な考え方も生きやすくなるのかもしれません。ドイツに長く生活していると、そんなことがちょくちょく頭の中を駆け巡るのです。
中心点と円周は円周が中心点になり中心点が円周になるという繰り返しをしていることです。中心点がいつも中心点で居座るのではなく、交互に交代するのが、シュタイナーのメディテーションの味噌です。
習うより慣れろの世界です。
私は神様の中にいる。
私の中に神様がいる。
私は神様の中にいる。
私の中に神様がいる。
繰り返しているうちに少しは本来の意味に近づけるかもしれません。
2021年4月4日
もう二十年以上前のことですが、十和田の人達が主催してくださった講演会の時、縄文体験があったのです。縄文文化が目の前に忽然と現れたのでした。
講演会のある会場の近くを散歩していたときにふらっと入った十和田博物館の縄文の資料室をみた時でした。東北地方と縄文文化とは私の頭の中で全く別のものだったので、そこに出現した大変な量の、しかも大きな縄文土器に驚いたのでした。私が一人だったこともあって、館長さんが「ご案内しましょう」と丁寧に言葉をかけてくださって、お言葉に甘え案内していただきました。
出土した土器のこと、縄文文化が東北地方の方まで広がっていたこと、そしてその数は日本の中でも有数だということ等等、今までの知識にはないものばかりで驚きの連続でした。
残念にも講演会が控えていたのでせっかくのお話を途中で博物館を後にしたのですが、館長さんが別れ際に「私たちは縄文の末裔です」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。
もう一つは三内丸山に行った時の体験です。新幹線が新青森まで伸びたので、待望の三内丸山遺跡詣でをした次第です。その規模にまず何よりも驚きました。学校で習った、縄文社会は小さな集落、そして竪穴住居、狩で生計を立てていたなどとは程遠いい景観に、現実はまだまだ分からないことだらけなんだということを実感した三内丸山遺跡詣ででした。
そんな中でも資料館を歩いているときに迫ってくる土器からのメッセージは強烈で、初めて「真善美」の和合を体験しました。そこには生活という現実があり、高い思想性、宗教性、呪術性があり、加えて洗練された美意識があり、それが見事に調和していたのです。初めての体験でした。手で触って見たかったと今でも思っています。
学問的にはなんの目的のためのものだったかが未だ分かっていない火焔型土器は普段目にする土器とは別の次元のものです。実用的であり、儀式的であり、美的でありと全てを調和する力を縄文人が持っていたことの証です。
ドイツで生活するようになってから、私が日本人だということは日本にいた時以上に感じるのですが、何を以って日本人とするのかはよく分かららないものです。昔は大和心、大和魂、大和言葉などに由来するものかと思っていましたが、私が縄文体験をしてからはそんな最近のことではないと思うようになっています。ただそれらの大和心などの中に縄文文化が受け継がれているとすれば、やはり大和心に由来すると言っても間違いではなさそうです。とまれ十和田の博物館の館長さんの「私たちは縄文人の末裔です」という言葉通り、私の中には縄文人がいると最近は強く感じています。
縄文文化の遺跡は現在は日本でしか見られないものです。だからと言って日本以外に縄文文化がなかったということではないようなのです。最近ヨーロッパに、もしかすると南米にもかつて縄文文化があったということを知り、そうだったのかと納得した次第です。アーリア新種の出現によって絶滅したと考えられているわけですが、ケルト民族はその末裔だった可能性があります。今の歴史ではケルト人がどこから来たのか分からないと説明していますが、アーリア人種によって滅されたはずの縄文人の生き残りがいたことを隠しているように思えてなりません。
ヨーロッパの縄文の跡地は徹底的に破壊されてキリスト教の教会が建てられています。ヨーロッパの縄文にたどり着くには、今の時点ではいくつか残っている巨石跡を手がかりにするしかないのですが、将来多くの人が縄文文化に意識を向けるようになれば、まだまだ新しい情報が現れるかもしれません。
さて私の中の縄文人ですが、これは他でもない自然と人間の調和であり、人間と神との調和、聖徳太子の中にも生きている「和を以って尊しとなし」の和です。聖徳太子も縄文人の血を引いた人だったと考えています。この和は、西洋的がいうところの平和とは違います。西洋は契約としての平和でしかないのです。約束の上のものですから、約束を破るものが出て来ればそれでおしまいです。和はもっと根源的です。自然と人間、人間と神は契約から導き出されているものではなく、最っと深い根源的なものので、最後は一つになる二つの表れの形を見せているものなのです。
2021年4月3日
教育に醍醐味は幼児を理解することにつきます。ここがいま最も評価されていないところのようです。社会的にも、教育の課題としてもです。
間違って欲しくないのは、幼児教育と銘打ったものが教育の本質だというのではないということです。私は幼児は教育しないのが一番だと考えているからです。幼児を理解すすることと今日の幼児教育との間にはいささかの隙間があると考えています。
幼児を私たちは、年齢的に位置付けられても、幼児そのものを分かっているとは言えないのです。これは私たちの文化の大きな落とし穴です。
幼児の手をひねるようにというのは、幼児は大人の思い通りにどうにでもなるということです。幼児を教育しようという考えには、もしかすると幼児の手を捻るのに似た考えがあるのかもしれません。だとするととても危険なことです。
幼児のうちに教え込んでおくのがいいと言われているものはいくつもあります。言葉はその最たるものでしょう。大人になってから苦労して二つ目の言葉を学ぶのに比べて、幼児期に二つの言葉を教えておけばすぐに覚えると考えられています。バイリンガルのことです。確かにその通りで、とても便利で効率のいいものです。でもそれ以上のものがあるのかどうか、疑問です。
用を足す言葉はいくつも覚えられますが、言葉のセンスを磨こうとするときには幾つ言葉を知っているということは、役に立たないものとはいえないですが、本質的なことではありません。外国語の素養があることは母国語を柔軟にするのに役に立ちますが、言葉のセンスそのものは母国語の中で磨かれるものだと思っています。
例えば絵描きさんの場合を例に取ってみると、水彩も描きます、油でも描けます、水墨画もしますといくつものスタイルで絵を描くことがいい絵を描くことになるのかどうか、疑問です。自分の描きたい手法で描くのが一番いいように思います。それを見つけることが大変な仕事のようにも感じます。
(私は絵を描く事と親い人間ではないので絵描きさんのコメントが聞きたいです。)
言葉のセンスを磨くためにはいい詩をたくさん読む事です。インスピレーションを磨くことに通じているからです。
私は個人的には定型詩が好きです。あの不自由さが言葉を磨くのに大いに役立っているように思うからです。
本当の自由は不自由とともにあるようなものかもしれません。