私の中の縄文人

2021年4月4日

もう二十年以上前のことですが、十和田の人達が主催してくださった講演会の時、縄文体験があったのです。縄文文化が目の前に忽然と現れたのでした。

講演会のある会場の近くを散歩していたときにふらっと入った十和田博物館の縄文の資料室をみた時でした。東北地方と縄文文化とは私の頭の中で全く別のものだったので、そこに出現した大変な量の、しかも大きな縄文土器に驚いたのでした。私が一人だったこともあって、館長さんが「ご案内しましょう」と丁寧に言葉をかけてくださって、お言葉に甘え案内していただきました。

出土した土器のこと、縄文文化が東北地方の方まで広がっていたこと、そしてその数は日本の中でも有数だということ等等、今までの知識にはないものばかりで驚きの連続でした。

残念にも講演会が控えていたのでせっかくのお話を途中で博物館を後にしたのですが、館長さんが別れ際に「私たちは縄文の末裔です」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。

もう一つは三内丸山に行った時の体験です。新幹線が新青森まで伸びたので、待望の三内丸山遺跡詣でをした次第です。その規模にまず何よりも驚きました。学校で習った、縄文社会は小さな集落、そして竪穴住居、狩で生計を立てていたなどとは程遠いい景観に、現実はまだまだ分からないことだらけなんだということを実感した三内丸山遺跡詣ででした。

そんな中でも資料館を歩いているときに迫ってくる土器からのメッセージは強烈で、初めて「真善美」の和合を体験しました。そこには生活という現実があり、高い思想性、宗教性、呪術性があり、加えて洗練された美意識があり、それが見事に調和していたのです。初めての体験でした。手で触って見たかったと今でも思っています。

学問的にはなんの目的のためのものだったかが未だ分かっていない火焔型土器は普段目にする土器とは別の次元のものです。実用的であり、儀式的であり、美的でありと全てを調和する力を縄文人が持っていたことの証です。

 

ドイツで生活するようになってから、私が日本人だということは日本にいた時以上に感じるのですが、何を以って日本人とするのかはよく分かららないものです。昔は大和心、大和魂、大和言葉などに由来するものかと思っていましたが、私が縄文体験をしてからはそんな最近のことではないと思うようになっています。ただそれらの大和心などの中に縄文文化が受け継がれているとすれば、やはり大和心に由来すると言っても間違いではなさそうです。とまれ十和田の博物館の館長さんの「私たちは縄文人の末裔です」という言葉通り、私の中には縄文人がいると最近は強く感じています。

縄文文化の遺跡は現在は日本でしか見られないものです。だからと言って日本以外に縄文文化がなかったということではないようなのです。最近ヨーロッパに、もしかすると南米にもかつて縄文文化があったということを知り、そうだったのかと納得した次第です。アーリア新種の出現によって絶滅したと考えられているわけですが、ケルト民族はその末裔だった可能性があります。今の歴史ではケルト人がどこから来たのか分からないと説明していますが、アーリア人種によって滅されたはずの縄文人の生き残りがいたことを隠しているように思えてなりません。

ヨーロッパの縄文の跡地は徹底的に破壊されてキリスト教の教会が建てられています。ヨーロッパの縄文にたどり着くには、今の時点ではいくつか残っている巨石跡を手がかりにするしかないのですが、将来多くの人が縄文文化に意識を向けるようになれば、まだまだ新しい情報が現れるかもしれません。

 

さて私の中の縄文人ですが、これは他でもない自然と人間の調和であり、人間と神との調和、聖徳太子の中にも生きている「和を以って尊しとなし」の和です。聖徳太子も縄文人の血を引いた人だったと考えています。この和は、西洋的がいうところの平和とは違います。西洋は契約としての平和でしかないのです。約束の上のものですから、約束を破るものが出て来ればそれでおしまいです。和はもっと根源的です。自然と人間、人間と神は契約から導き出されているものではなく、最っと深い根源的なものので、最後は一つになる二つの表れの形を見せているものなのです。

 

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