幼児を理解するということ

2021年4月3日

教育に醍醐味は幼児を理解することにつきます。ここがいま最も評価されていないところのようです。社会的にも、教育の課題としてもです。

間違って欲しくないのは、幼児教育と銘打ったものが教育の本質だというのではないということです。私は幼児は教育しないのが一番だと考えているからです。幼児を理解すすることと今日の幼児教育との間にはいささかの隙間があると考えています。

 

幼児を私たちは、年齢的に位置付けられても、幼児そのものを分かっているとは言えないのです。これは私たちの文化の大きな落とし穴です。

幼児の手をひねるようにというのは、幼児は大人の思い通りにどうにでもなるということです。幼児を教育しようという考えには、もしかすると幼児の手を捻るのに似た考えがあるのかもしれません。だとするととても危険なことです。

 

幼児のうちに教え込んでおくのがいいと言われているものはいくつもあります。言葉はその最たるものでしょう。大人になってから苦労して二つ目の言葉を学ぶのに比べて、幼児期に二つの言葉を教えておけばすぐに覚えると考えられています。バイリンガルのことです。確かにその通りで、とても便利で効率のいいものです。でもそれ以上のものがあるのかどうか、疑問です。

用を足す言葉はいくつも覚えられますが、言葉のセンスを磨こうとするときには幾つ言葉を知っているということは、役に立たないものとはいえないですが、本質的なことではありません。外国語の素養があることは母国語を柔軟にするのに役に立ちますが、言葉のセンスそのものは母国語の中で磨かれるものだと思っています。

例えば絵描きさんの場合を例に取ってみると、水彩も描きます、油でも描けます、水墨画もしますといくつものスタイルで絵を描くことがいい絵を描くことになるのかどうか、疑問です。自分の描きたい手法で描くのが一番いいように思います。それを見つけることが大変な仕事のようにも感じます。

(私は絵を描く事と親い人間ではないので絵描きさんのコメントが聞きたいです。)

言葉のセンスを磨くためにはいい詩をたくさん読む事です。インスピレーションを磨くことに通じているからです。

私は個人的には定型詩が好きです。あの不自由さが言葉を磨くのに大いに役立っているように思うからです。

本当の自由は不自由とともにあるようなものかもしれません。

 

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