Ich denke die Redeは何も考えてはいないのです。

2021年3月21日

今日は少数の方にしか興味がないことを書きます。

Ich denke die Redeといってわかる方への話です。

 

ドイツ語のdenkenは文法的に「an」という前置詞抜きには意味を成しません。彼氏のことを考えるは「an 」と彼氏が一組になります。

私たちは何かを考えるのですが、その時の「何かを」は「an」という前置詞が受けます。この前置詞なしでは何がなんだかわからない、曖昧模糊としたものを思い浮かべているという程度のことしか言われていないのです。つまりanなしでは、何が何だかわからないのです。

シュタイナーがオイリュトミーのために作った瞑想的トレーニングの始まりIch denke die Redeは、曖昧模糊とした始まりなのです。

ところが何度か一緒にこの瞑想的トレーニングをしたときに、「私は話すことを考える」などという頓珍漢な言葉が飛び出してきたのでびっくりしました。頓珍漢ではなく間違いです。

Ich denke die RedeはIch denk an die Redeとは違います。

これを同じものとできるとすればそれは相当の神経の持ち主ということになります。そんなことはこれっぽっちも言っていないので、先ほどの翻訳はおお間違いなのです。

Ich denke der Redeというのであれば、昔のdenkenの使い方に二格を用いて「思い出す」「記憶をたどり寄せる」という意味で使った経緯があるので、「私は語られたことの記憶をたどり戻している、つまり思い出している」という意味になりますが、Ich denke die Redeのdie Redeは四格扱いですから、全く違う意味になります。尋常でないことが起こっているのです。

ここでのdenkenは普通の考えるとは全く違うものだということが想像できます。日常生活のあれこれを考えているわけではないのです。ましてや昔のことを懐かしく思い出しているわけでもないのです。

よろしいですか、「未来に向かって想いを馳せているのです」。だからぼんやりと曖昧なものにならざるを得ないのです。その訳の試みは以前のブログに既に紹介してあります。

私はこのことをもう何年も前から言っているのですが、賛同の声も反論もありません。全くの無視です。ただこれからも「私は語ることを考えている」なんて嘘をオイリュトミーを続けるようであれば、私はオイリュトミーというものの在り方自体に疑問を持つことになります。

三寒四温

2021年3月21日

三寒四温と聞くと春の気配を感じます。これを情緒的というのでしようか。週間天気予報で向こう一週間の天気、気温の様子を見るときは感じるものではありません。

どちらも自然の移り変わりを言い表しているものですが、三寒四温の方により自然を感じるのは、私の年齢的なものなのでしょうか。

 

自然の中で私たちは生活しています。農業に従事されている方から比べれば普通の人は、特に都会人は自然に対しての反応が鈍くなっていますが、それでも自然の中の存在です。自然というのは私たちが想像する以上に曖昧なものですが、それでも身近で、情緒的なものとの結びつきで存在しているので、とても信頼感のあるものだと言えます。

人と人とが話をするときに一番話題になっているのは天気のことだと言う報告を若い頃に読んだことがあります。他にもっと大切なことがあるはずだなどと若気の至りで感じたものですが、今は「そうか」と納得します。明日が雨になるのか、晴れるのか、寒いのかなんてどうでもいいわけです。それに見合った服装をしていれば問題はないのですが、自然の中の天気はそういう基準では存在していないのです。

ニュートンが本当にリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を発見したかどうかわかりませんが、林檎が木から落ちると言う自然現象をきっかけにしていることで、ニュートンと万有引力の発見という物理的現象が生き生きとしてくるのです。そしてそのまま何百年と後世に語り継がれるのです。もしニュートンが実験室にこもって一人で黙々と万有引力発見したとして、万有引力の発見者ニュートンがこれほど人気のある話になってはいなかったと思います。

自然はいつも身近にいて私たちを包んでいます。ときには自然が私たちの中に入り込んでくることがあります。松尾芭蕉は、松のことは松にならえと言いました。シュタイナーも自然が自然の法則を教えてくれていると言います。ゲーテは雲を徹底的に観察して次に起こる空の様子を言い当てたと言われています。その時使ったものはゲーデロメーターと言われるシンプルな構造の器具で今日でも使われています(これはゲーテが発明したものではなく、ゲーテはこれをフルに活用しただけです)。

ともあれ、自然と人間は不思議な結ばれ方をしています。神と人間の結びつきよりも情緒的なので、気まぐれですが、とても身近で、親しみやすいものです。

三寒四温、ドイツもこれから少しずつ暖かくなってゆきそうです。

倫理のこと、エジソンのお母さんの英断。

2021年3月21日

私たちはどうしても、善玉悪玉で考えるパターンで考えてしまいます。こびりついた癖です。このパターンの中に閉じ込められてしまった二千年も経ったのです。

善玉悪玉的な考え方はある特定の思想を守るための力にはなります。自分たち以外を野蛮人と悪玉呼ばわりすればいいのですから。ところが、そんな低次の力は本当の意味で生きる力にはなっていないものです。

私たちは悲しいかな二千年もの間一つの思想の砦に閉じ込められていたと言えるのです。

 

善悪の彼岸に何があると予感した人もいるのでしょうが、そこには辿り着かなかったようです。そろそろそんな時代が来てもいいのようなのですが、まだでしょうか。私は善悪の彼岸にこそ私たちの人生を作る大きな力があると思っているのです。。

この善悪という発想によって人間は苦しめられ続けました。ただ反面教師的に、善悪で人を縛り付けて、それに反抗する力を育てたと言える部分もあるのかもしれませんが、無駄骨を負ったと言えるのではないかと思います。そろそろ終わりにしなければならないもののようです。

倫理のことを考えるのです。倫理というものはきっとこの善玉悪玉の囚われから解放されているものだと思います。もしかすると私たちを善悪の彼岸に導いてくれるものかもしれません。

私たちは、とかく、倫理というのは善悪の境界線だと考えてしまいます。ところが、実はそんな低次のものではないのです。善悪を超えたものがある。それが何なのかを考える力が倫理だと思います。あるいは方向を示してくれるつからです。つまり倫理はそれ自体は無色透明なものだということです。

 

後の発明王、トーマス・エジソンは小学校の時、ある日、先生から一通の手紙を渡されます。

少年は家に帰り預かった手紙を母親に渡します。すると母親は手紙を取り出し一読すると、今度は大きな声で「オタクのお子さんは優秀すぎて学校でお預かりできませんので、ご自宅で教育を施してください」と読んだのです。エジソン少年は次の日から学校へは行かず、伸び伸びと好き勝手なことをやりながら、自宅で勉強したということになっています。

さすが屈指の発明王は違うと思ったのですが、どうや事実は違っていたようです。

成人したある日偶然にエジソンがその手紙を見つけます。そして中身を読むのですが母親が読んだ文面は真っ赤な嘘だったのです。「オタクのお子さんは知能が低く学校の勉強についてゆけませんので、どうぞ自宅で好きなように教育ください」という内容だったのです。

その手紙を読んだ時エジソンがどんな顔をしたのかは知りませんが、エジソンはお母さんに感謝の気持ちでいっぱいだったことは想像するに難くない事です。エジソンがエジソンになったのはお母さんのおかげだったからです。

それにしてもお母さんの裁量には驚かされます。先生からの脅かしとも取れる態度にびくともせずに我が子を信じたのですから。親の子どもを信じる力は絶大だと言われていますが、それを目の当たりにするような話しです。

これは先ほどから話題にしている倫理の力のような気がするのです。お母さんの頭の中は真っ白になり、透明になって、そこにその状況に相応しい直感が降りてきたのでしょう。迷いがないのです。一瞬の出来事です。

今ならエジソンは支援学級にでも送られて、普通の人になっていたかもしれません。社会がシステムの中でうまく機能することに慣らされてしまった私たちには残念ながら他に選択肢がないようです。

 

今回のコロナ騒によって、そうした旧来のシステムにヒビが入ったような感じです。そのヒビをいち早く修復することに賢明になるのか、それはもう壊れるものとみなして、別の道を歩むのか、今は岐路に立たされているような気がします。人類に素晴らしい直感が降りてくることを祈ります。