2021年3月19日
私の講演はほとんど日常語です。難しそうな専門用語は極力避けます。というより使いません。専門用語は硬いですし、繊細さにかけるので、聞き手の直感を刺激することはないと考えているからです。専門用語は見てくれが悪いです。これは最悪です。その上、繊細さも、そして何よりも上品さにかけるのが気になります。私にとって専門用語はまだ十分に言葉になっていない半熟の言葉なのです。
遡れば明治に西洋学問を輸入した時に案出したものが今日でも学問用語、専門用語として使われています。私たちが日本語というときはほとんどがこれらの翻訳新語を含んだ、西洋の言葉から作られた日本語です。私には不思議な言葉ですが、これが今は普通になってしまったのです。
当時は大和言葉でした。学問の言葉もあるにはありましたが、単語を難しくするのではなく、文体で語る努力をする姿勢が強いのでは無いかと思っています。
単語を難しくすると上等なことが言えていると思うのは単なる思い込みです。知識人が住む知的社会の妄想です。相手がいて、相手に伝えようとしたら日常語で言えなければわかったことにはならないと私は思っています。
そのためには文体を鍛える必要があります。短い単語の中には、文体が凝縮しているような美しい言葉もあるにはありますが、基本的には難しい単語は迷路です。
私は芝居の言葉が好きです。シェークスピアの劇の特徴は、登場人物が舞台に登場し、初めてのセリフを言っただけで観客サイドはそれが誰なのかがわかるという魔法です。セリフひとつでどういう人で、その場面でどういう位置にあるのかがわかるのです。言葉を熟知しているからできる技です。意味だけでなく聞いた人がどのようなインスピレーションを持つのかを知り尽くしているのです。これが言葉による芸術の真髄です。だからシェークスピアは三百年の間生き続けたのです。生きた言葉がつないでくれたのです。生きた言葉は現実の生活そのままなのです。時代を超えて理解されるということでもあります。
言葉は簡単なほど美しいです。美しいだけでなく力強いです。難しい言葉ほど自己満足の世界で空回りします。その上人からの賛同を得られないと、非常に脆い言葉です。外国語を学ぶときにも、専門用語は取っ付きにくいですが、慣れれば難しいものではありません。簡単そうに見える日常語の方が遥かに難しいのです。なぜなら日常語は言葉のセンスで磨かれ作られているからです。長い年月の間多くの人によって使われてきた実績もあります。
自分が思っていること、考えたこと、研究したことを正確に伝えるという専門用語は、結局は自分のことをいうエゴの言葉に属するのではないかと思っています。本人が頑張ったほどには他人に伝わっていないものです。だからと言って学問的な研究を不必要なものだとは考えていません。ただそれを表現する言葉は研究者でも磨く必要があると考えるだけです。友人の数学博士が、数学も結局は言葉の力に帰するところがある、とつぶやいていました。
日常の言葉を駆使しながら、磨き抜かれた文体で深淵な思想の世界、精神の世界が語れるように努力したいものです。
2021年3月18日
日本では五感という言い方がポピュラーです。
この五という数は五行の考え方からきています。これは古代中国ですでに活用されていた世界観で、世界を五つに分けて捉えるため、人間の感覚も五つに分けて捉えます。感覚器官が五つしかないということではありません。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚が五感です。
触覚という感覚は他の、味覚、嗅覚、視覚、聴覚とは違うと考える人たちがいます。そのため基本は今あげた四感覚で、そこに触覚が加わるのですが、触覚は独立した感覚というより他の四つをまとめているものと考えているようです。。
シュタイナーの十二感覚の十二も、西洋占星術で使われる十二と同じものが下敷きになっています。世界観という見方です。こちらも五感の時と同じで十二の感覚器官があるというのが出発点ではなく、感覚能力を十二に分けて説明しています。世界の表れの姿を十二に分ける世界観です。
ところがシュタイナーが初めて感覚に触れた時は十感覚でした。そこではやはり触覚が含まれていなかったのです。自我感覚も含まれていませんでした。触覚は五感の時にも、十二感覚の時にも外される運命にあるようです。シュタイナーはその後、触覚と自我感覚を入れて十二感覚とするのですが、この二つの感覚は他の感覚とは一味違うもののような気がしています。
その辺を探ってみましょう。
視覚は網膜に光が触れます。聴覚は鼓膜に音が触れます。嗅覚は匂いが鼻の粘膜に触れます。味覚は味が舌に触れます。という具合で、感覚とは基本的には触覚を含んでいると言ってもいいのです。あるいは触覚の変形したものなのかもしれません。
特別な例として、視覚がない場合、つまり目の見えない人にとって触覚は極めて重要ですが、それ以外の人の場合はよくわからない、普段はほとんど意識しない感覚なのです。
触覚を感覚器官と見做すとしたら、何が触れているのでしょう。周囲の何かです。人間を取り囲んでいる周囲の「もの」全てです。ところが視覚が椅子だとかテーブルだとかを見て判断してしまう時には触覚の働きは視覚の後ろに消えてしまい、触覚的感覚はありません。見えない時、目が見える人でも真っ暗闇の洞窟の中では、手探りで触れます。まずは触れてそれらの存在に気付きます。もう行き止まりだとかです。その時点では具体的な形はまだわかりませんから、触覚はものに直接触れて、存在と対峙しているということです。
そうすると触覚というより、ものの存在を感覚するので、存在感覚と呼んだ方がふさわしい気がしてきます。何かの存在を感じ取るときは、そのものに触れているのです。触れるというのは人間が存在しているということの大基本だということです。
十二感覚で始めに触覚と共に外されていた自我感覚という奇妙な名前の感覚も、相手の自我存在を感じる感覚ですから、やはり存在を伝えるということでは触覚と非常に似ています。
私たちは、感覚を持ち、それによって周囲の世界から色々な刺激を受け取り、それによって世界を理解している訳ですから、感覚によって人間は自分の存在を確信していると言えそうです。
感じるというのはフィーリングですが、感覚するというのはもっと切羽詰まった、存在していることの手応えであり、存在の確信だと言えそうです。
感覚を育てるというのはひいては自分が存在していることの自信につながるものなのかもしれません。目標に向かって努力して自分に自信をつけるという体育会系の自信とは別の、感覚から得る自信というのがあるのです。
聴覚に問題のあるお子さんのお世話をしていた時、そのお子さんをおんぶすると、私の背中でまるでマッチ棒のようにまっすぐに突っ張っているのです。私の背中の形にぐにゃーと凭れるのではなく、そのお子さんの体は硬直しているのです。
聴覚だけではなく、感覚というのは基本的にはこのように体をほぐしているものと言えるのかもしれません。そこから心身ともにしなやかさが養われているので、感覚とともに生きていれば、とてもしなやかな人生を送ることになりそうです。
知的、概念的な傾向にある現代は物事を概念化して、机上の空論にしてしまいますから、感覚的に、何かに直に触れて生きることで興味や関心が生き生きと活気づき、それによって豊かでしなやかな生き方を考える必要があるようです。
2021年3月18日
思考、つまり考えるのも瞑想するのも元は同じものでした。
私たちが物質的な世界と結びつきを深めると物質に拘束されるのは否めないことです。そこが瞑想との分岐点で、二つの異なった道を歩むことになります。
考えるのは「何かについて」「何かをめぐって」考えるということで、手で触ったり、見えたり、聞こえたり、臭ったり、味がするものを通して感じられるものの周囲をぐるぐると巡っているので、物そのものを直接考えているわけでは無いのです。考えるというのはうろちょろしている頼りないところがあるものなのです。そのために数字のようなものを道具として活用します。あるいは他の人の発言を引用することで後ろ盾にします。
瞑想は違います。しっかりと物事を直視しています。
瞑想的が昨今はスピリチュアルな流行で大いに取り入れられているようですが、案外思考の延長そのままのことが多いようです。スピリチュアルなことに思いを巡らせるのが流行っているので、基本は物質的な思考方法で、本来の瞑想を活用しているのでは無いようです。
ある物事に向かうとき、精神的に向かうと具体的です。直視します。瞑想的です。ところが物質的に向かうと説明できることが重要になりますから、もののの本質ではなく、実験結果とか統計的なデーターで物事を判断するようになりますから、具体的ではなくなり、ましてや直感的でもなく、説明的なのです。それでは物事の周りをぐるぐる回っているだけで、核心に迫ることはないのです。まさに虎穴に入らずんば虎子を得ずということになってしまいます。
瞑想は囚われから解放されています。前提がないので思考と比べると地に足がついていない不安定なものに見られがちですが、これが本当は逆で、思考は前提がある分いつも我田引水的なものだと言えるのです。ところが、表面的に実験とか統計から割り出される数字を武器にあたかも客観的であるかのような顔をしているので、現代人はこの数字にいいように振り回されています。
数字は客観的なものではなく、プロパガンダの道具だと知っておいて間違い無いと思います。歴史というのが嘘をつく時必ず大袈裟に数値で誇張します。数字は洗脳するのに一番手っ取り早い道具です。
瞑想ではなく思考が今日主流になってしまったのは、生活が専ら物質的な充足に振り回されたからです。さらに人間の知力が衰えている事も原因しています。一見教育が行き届き、文盲が減り知的な人間たちが増えているように見えますが、今日の教育では瞑想的能力は育成されないので、人間はますます精神的には、教条的になり、ある種の思考パターンの中でしか結論が出せなくなっています。あるいはみんなが同じ考え方をするようになって、似たような行動を取るようになっています。これではすぐに強力な権力に先導されて言いなりになってしまいます。相当危険な状態です。
私たちは教育を本気に変えることを考えないといけないところにいるのです。そこでの課題は思考的人間育成から瞑想的なものへの移行と言えるのかもしれません。今日の人間たちの思考は相当干からびていることも付け加えておきます。干からびているだけでなく融通が利かなくなり、しなやかさがなく、細かく曲がりくねったカーブをきる運転技術も無くなっていて、ただ直線をまっすぐ走るだけのものになっているのかもしれません。
私はそんなことを今日の人間たちの笑いがとても貧しくなっているところからも感じています。笑いはもっと豊かなもののはずで、テレビでひっきりなしに放映されているパターン化された笑いは、文化にとって有毒です。文化の貧困を生んでいるものだと思っています。