役割と存在、意識のこと

2021年3月16日

意識という厄介な世界をご丁寧に、顕在意識と潜在意識とに分けています。他に意識と無意識という分け方もあります。私は一つの意識のところでつまづいているので、二つに分けられても戸惑うばかりです。

 

ただ最近は、私たちが生きてゆくときに、社会的な役割の部分と、役割とは関係のないその人の裸の部分、存在とに分けられるように、意識というのも、顕在意識と潜在意識とに分けるのも正当性があるように思えてきたのです。役割的な顕在意識と、存在の潜在意識という具合にです。

このように分けると少し近づけたような気がします。

 

私たちは人と出会った時に自分の仕事や、会社の名前や、その会社でのボジションを相手に伝えます。つまり社会での役割ということです。

役割のアピールは簡単ですが、存在の方は簡単ではなく、「私という人間は・・・」、と言い始めても後が続きません。自分でも自分のことがわかっていないのです。まさに潜在意識のような物です。私たちの意識の大半が潜在意識だと言われています。90パーセントという人もいます。

ということは私たちは社会での役割を人前に喜んで持ち出しますが、それってその人の極々わずかの部分を占めているだけで、大半は存在という部分に埋もれているのです。だから存在を人前にアピールすることはできないということなのです。

 

自分を研究した人は存在の部分をいうことを言葉にできるのではないかと思われるかもしれませんが、存在は研究してわかるような代物ではないのです。思い込むのが精一杯です。自分のこだわりとかクセとかがせいぜい言葉になるだけです。それ以上になると言葉にすればするほど虚しくなるものなのです。

ここで記憶はどんな働きをしているのでしょうか。記憶で私たちは自分を支えられているのです。子どもの頃からの記憶の総体が私たちだと言えるのかもしれません。ところが、記憶そのものが私たちだということにすると混沌とした総体なので混乱してしまいます。

もう少し詳しくいうとこんな感じです。全ての記憶がブールされている記憶体に私たちの鏡が降りてゆき、混沌とした記憶を整理しながら鏡に写していると想像してみてください。その鏡に写ったものが私たちが自分だと言っていることなのです。その鏡が自我と言われているものかもしれません。しかしこの鏡に写せる記憶も顕在意識です。ですから潜在意識はどこにあるのかすらわかっていないのです。自己暗示とか自己催眠という方法で潜在意識は垣間見ることができると言われています。他の人に催眠術をかけられると出てくるのが潜在意識と言われていますが、私は催眠術の経験がないのでここでは何も言えません。

 

ただ潜在意識のことで経験したことがあるので、最後にそのことをお話ししてこのブログを終わりたいと思います。

何年もにわたって毎年私の講演会に顔を出していた方が、「今年が最後です」と言われ、次の年、そしてその次の年もお目にかかれませんでした。ところが三年目に再び講演会に顔を出してくださったのです。講演会の後お食事をしている時、彼女は二年の間にあったことを話してくださいました。「潜在意識の会」に行っていたのだそうです。「母との関係が子どもの頃から気になっていたので、それが整理できるかと期待して参加した」とおっしゃつていました。「ところが母をイメージして、馬鹿野郎、と罵れと言われるのです。私がうまくできないと、怒られながら何度も繰り返されました。でも私、疲れてしまったのです」ということでした。結局、潜在意識がなんなのかわからないままその会を辞めてしまったそうです。私がその方を二年ぶりに見て気になったのは、そのかたの雰囲気が暗く思っ苦しいものに変わっていたことです。顔の血色もなく、ドス黒くなっていたと言いたくなるほどでした。

結局その女性は何をしていたのでしょう。潜在意識にたどり着けたのでしょうか。もしたどり着いていたのだとしたら、想像するに、少なくとも何かが開放されたはずです。あのドス黒い顔色は心が傷ついただけのような気がしてなりませんでした。馬鹿野郎という言葉によって解決できるものはないはずです。ましてや潜在意識は私たちの存在を支えている高貴な力のはずだからです。

目が笑う

2021年3月15日

笑いがなかったら生きていてもつまらないと思うのですが、ドイツにはよく苦虫噛み潰したような顔をしている人がいるんです。笑わないのかなぁ、体に悪いだろうと他人事ながら気になつてしまいます。笑わなかったら生きていてもつまらないと思うのですが、よくブーブー文句を言っています。

 

人を笑わせるのはことのほか難しいことです。理由は笑いというのがとても繊細だからです。押し付けられないし、笑いを引き出してくるなんてできないですから、笑わない人はそののままにしておくしかありません。喜劇役者が小さな劇場の一列目に全然笑わないお客がいてやりにくかってと話していました。その人の席のところだけが真っ黒だったと言っていました。笑うと明かるのだとその人は逆に感動したそうです。笑うというのは、花が咲くということらしいです。

 

笑いは国によって、人によって、気をつけないとジェンダー問題に引っかかりますが、女性と男性でもずいぶん違うものです。ドイツ人の間では、半分冗談、半分本気で、カソリックとプロテスタントでは笑いが違うというようなことを言います。私はその辺りが少しずつわかるようになってきました。

 

笑っていても目が笑っていないと笑ったことにはなりません。ある哲学の会で、学識の高そうな方と同席したとき、そのかたの目が全然笑っていないのがとても気になりました。他の人がプレゼンしている時など、一応笑顔を作られるのですが、私には本心からは笑っていないように見えて仕方がありませんでした。もしかしたら本気で聞いていないのではないかと勘ぐっていました。目は心の窓だし、口ほどにものを言いますから、目が笑っていなかったのがとても気になったのです。

私は人に紹介された時など、その人がどういう肩書きを持っているのか、どんな発言をする人なのかはほとんど無視しています。その人の声と笑い顔を見るだけで十分だからです。それも目が笑うかどうかです。笑っていない時にも目が綺麗で、ほくそ笑んでいるような人がいます。そういう人が発言している時にはしっかり耳を傾けます。

 

生まれつき目つきがきつい人がいました。いっときヤクザな世界に染まってしまった経歴の持ち主でした。彼は自分では笑っているつもりなのに、いつも他の人からは警戒されているように感じて、なんとかしたいと悩んでいて、整形手術も考えたほどですが、整形のお医者さんから手術ではどうにもならないと言われやめたそうです。その人は解決策とし優しい顔になるサングラスをかけることにして、外で人前に出る時にはいつもサングラスを着用していました。西洋ではサングラスをかける人を多く見かけますが、さすが室内では外します。日本ではサングラスをかけたらかけたで却って不審がられてしまうので、たいして効果は無かったのではないかと想像します。

 

笑顔を作るセミナーってあるのでしょうか。私はそれより優しい目を作るセミナーがあればそちらにの方に行きたいです。

俳句のことを書いてみます

2021年3月13日

俳句が俳句たる所以は何かと考えてみました。

それはユーモアを置いて他にないだろうと確信しています。

俳句は現実を非現実化する遊びです。言葉による遊びですが、これだけ言葉が少ないと、言葉以上のもの、つまり言葉にできない物の役割が大きくなります。

非現実は現実離れしているというのではなく、現実を超えているという意味ですから超現実が正しい言い方かもしれません。現実から超現実へ、これが俳句の根底にあり、ユーモアがそれを支えています。

哲学的に整理して理屈でまとめても俳句ほど的を得たことは言えないと思うことが多いです。物の本質は直感でしか語れないからだと思います。哲学の結論は大体ぼやけています。哲学や、思想の人たちは、説明が主体です。ところが説明では何も存在を説明していないということがまだわかっていないので説明の空回りに時間を費やしているというわけです。

俳人、そして詩人という人たちは現実を鋭く見つめている人たちです。ですから、現実を鋭く切ることができ、そこからバネをもらって現実を超えたところで遊べるのです。

まるでユーモアという海の中を泳いでいるようです。

遊びはユーモアの見える姿だといっていい物です。遊ぶ姿のなかにユーモアは生きています。言葉で遊ぶのは勇気のいることです。言葉は正確であるべきで、真面目な物だからです。その重たさを克服して無重力に近い中で遊ぶのです。だから直感が生きていて本質を見抜けるのです。存在と出会えるのです。現実を説明したら現実からどんどん遠ざかって機能の説明におわつてしまいます。それでは説明する人の迷路にはまってしまいます。

 

いつもしつこく繰り返していますが、俳句は季節に縛られています。ここが大事です。季節を表す季語で制約されているからいいのです。そうでなかったら糸が切れたタコのようなもので、どこを飛んでいるのかわからなくなってしまいます。季節は時間的現実なので、それを無視すると抽象的な思いつきを綴るだけのことになってしまい、俳句ではなくなってしまいます。

 

ここで問題なのは西洋的な考え方に染まっている人たちです。彼らも俳句を詠んでいると思っています。もちろん彼らの俳句は説明が主になってしまいます。説明できたら満足できるのでそこを強調しますが、それは自己満足の域を出ない抽象的な空想で、地に足がついていない空虚な世界です。それはユーモアの海を泳ぐ俳句精神とは全く別物の、重力にひきづられた説明の僕です。

 

日本の言葉、日本人の歌心は俳句まで来てしまったのです。もしかしたら言葉がなくなる手前まで来てしまったのかもしれません。だとしたらもう一歩です。人間は嘘がこびりついた言葉から解放されるのでしょうか。