2021年3月13日
嘘は、いい嘘とよくない嘘があるとみたら少しは救いがあるかもしれません。ファンタジーも同じだし、魔術も白魔術と黒魔術という具合に分けられています。
ただ西洋の文化思想の中なのでいつも白黒ですが。
いい嘘によって文化が栄えたのです。小説は嘘です。詩も演劇も嘘です。科学も前提がある限り嘘のようなものです。仮説も嘘です、思想も哲学も言うなれば嘘からでいます。
ところが、よくない嘘が平気な顔して罷り通る世の中になると、たいてい権力の道具になります。権力者たちは人を誤魔化す嘘が大好きです。独裁政治の誕生です。イデオロギーがなんであれ、表面のコーティングがちがうだけでたどり着くところは同じ権力の独裁ですから、一握りの人間だけが幸せになるという貧しい世界です。
みんなで嘘を撲滅しようと頑張るのは意味のないことです。嘘がなくなったとします。もちろんそんな簡単ではないですが、そうした社会を想像してみると、正直者、義の人ばかりが集まる立派な社会に見えますが、現実にはどうでしょうか。誰か賢い人が完璧な嘘撲滅機を発明して、撲滅に一役買ったとしても、人間社会にから嘘は消えないでしょう。磯撲滅機の登場で懸念するのは、この機械が頑張りすぎると、人間までいなくなってしまうのではないかということです。
さて嘘は撲滅できないとなると、次の手はなんでしょうか。共存ということらしいのですが、何が共存なのでしょう。妥協点があるとでもいうのでしょうか。今までも表面的には共存でしたから、今まで通りやっていればいいのでしょうが、今現在権力と結託した嘘は飽和状態なのでこれ以上増えるのは地球にとってよくないです。それにその手の嘘にはもう飽きました。
いい嘘にはユーモアが感じられます。しかしよくない、権力の道具に成り下がった嘘には全然ユーモアがなく干からびていてつまらないです。
嘘の反対は正直とか赤心とか本当とかではないですね。真実とか、誠とかいうのも、飾り的には面白いですが、退避させても嘘がなんなのかは見えてこないです。本当といったり、真実と主張しするところにも嘘の匂いがぷんぷんしています。そっちの嘘は綺麗事を装っているだけ醜いです。
最後に気になる嘘のことを書きます。それは声のことです。
西洋音楽の中で歌うときには、ベルカント、美しく歌う、という唱法が使われます。この声は無理やり作られた、楽器として使われる声といっていいものです。つまり作り声です。
この声は1830年頃にマッチョなテノール、英雄的なテノールとして生まれた声で、それ以前の発声とは違うものです。朗々と歌う新しい時代のオペラに重宝されました。
もちろん声である限り人間の生命力の一部なのですが、意図的に作られ、それが前面に押し出されていて、よく響くことばかりが工夫されているので大ホールでのコンサート、オペラにはうってつけの声ということになります。
このベルカントの声、作り声ですから長く聞いていると疲れてきます。オペラには向くのかもしれませんが、歌曲で心を歌う時にはあまりに人工的すぎて、表現の道具に成り果てたとしか思えない誇張した声なのです。
人間の存在が響く以上に、演じているわけで、見栄えがいい声ということで、それ以上のものではありません。
人間、存在が響く時、声は朗々と歌わずに静かに語ります。
2021年3月12日
三國シェフの料理のYouTubeをよくみています。
レシピをもらってそれを作ろうという魂胆からではなく、彼の料理に向かう姿勢にワクワクするからです。
シュタイナーの「アントロポゾフィーは料理のレシピのように考えないで欲しい」という言葉が私のモットーなので、三國シェフの料理をみていると、レシピで作らない料理を目の当たりにできるので、それが楽しくみています。
三國シェフが作っている料理にはレシピがあるではないかという方もいらしゃるでしょうが、それはみた人が同じものを作れるようにという優しい配慮からで、大事なのは彼はレシピで作っているのではなく、彼がレシピを作ったということです。その料理は彼が得意とするフランス料理ではなく、料理のエッセンスが詰まった三國シェフ料理です。世界にひとつしかないものかもしれません。
なんともこれだけのことが嬉しくてしょうがなく文章にしました。これ以上は言うことなしです。お騒がせしました。
自分のレシピを作りたくなりました。
2021年3月11日
日本人がフランスで料理の修行をして日本でフランスレストランを開くというのはよく聞く話です。美味しい高級フレンチは舌に肥えた日本人の間ですぐに人気者になります。
ところがそうしたフレンチにフランス人がどう反応するのかというと、本物のフランス料理ではないと言うクレームがつきます。日本人が作ったものだからだそうです。味噌、醤油、鰹節、昆布で育った舌ではフランス料理は作れないとはっきり言います。
言われてみればそうかもしれないと思うし、私たちには日本人の作ったフレンチの方が馴染みやすいことがあるのは、そう言うところから来るのかと納得する一方で、いつも疑問に思うのは、今の俳句ブームにまつわるエピソードです。世界中で俳句が作られています。もちろん日本語ではなく、それぞれの言葉で作られます。私も時々読まされますが、俳句とは別物だと思って読んでいます。
日本語で作られた俳句も作者によってずいぶん違う作風がありますから、俳句といって百人百様で、これが典型的な俳句というのはないですが、俳句の匂いといったらいいのか、俳句を感じされるものというのはあるように思っています。季語があり、季節感が迫ってくるもの、花が香るものなど、言葉の遊びが繰り広げる世界の楽しみ方は色々です。
外国語の場合は17の音という制約を守れば全て俳句です。それさえ守っていれば俳句なので、作者は俳句と川柳の違いを知らないで作っていると思います。季語の制約がないので基本的には川柳です。しかし彼らは川柳とは言わずに通りのいい俳句で押し通します。
私に読ませて、どうかと聴いてこられると、一番答えに困ります。読んだ感想はただ短い詩です。ポール・ツェランの短い詩の方が完成度は高いといつも思うのですが、「これは俳句ではないですよ」とはなかなか言いづらく、言葉を濁しています。
ある時、自信満々で俳句を持ってこられて、日本人以上の俳句だと言わんばかりだったので、「俳句の足元にも及びませんね」とはっきり言ったら、「日本人の自惚れには呆れたものだ。日本語でしか俳句ができないと買い被っているのが滑稽だと」喧嘩になりました。
日本人が作るフレンチはフレンチではないと苔下すのに、日本人にしか俳句ができないなんで自惚だと言える神経はどこから来るのでしょうか。
思うに、西洋が自慢する自我とはこの程度のものだったようです。
根本のところで何かが狂っているようなので、私が何か言ったところですぐに変わることを期待することはできないようです。