2021年2月17日
技術を磨くと技術の上達は同じではありません。
違うと言えることがまずは職人である証です。
職人の資質をそこに見ています。
職人とは誰なのでしょうか。
ここを明らかにしたいと思っています。
職人は一定の技術を持っています。
努力して身につけたものです。
それを上手と評価するのは勝手ですが、マイナスの力です。
上手は外から判断されることで、自分では評価できないものです。
自分で上手だと公言すれば、人間性が疑われてしまいます。
ドイツ人がありがとう、おはようございます、こんにちは、さようならといえたら日本語が出来ると自慢する様なものです。
自分で上手になったと思った瞬間に何かが壊れます。
実態は自己壊滅です。
研磨に励む緊張が壊れます。
内側からの崩壊です。
自惚れと呼ぶものの仕業です。
ようやく職人とは誰かに辿り着きました。
職人とは自惚れを持たないことです。
自惚れたら努力への衝動の停止です。
職人は努力し続ける能力のある人のことです。
努力は永遠です。
人の命は短く芸の道は長く。
自惚れ、成長というまやかしの網は身近にあります。
今まで教育は博士号のためのものでした。
教育が将来、職人を作れる様になることを祈っています。
2021年2月16日
日本がまた地震で揺れました。かなり大掛かりな地震だったようで、被害に遭われた方のご無事を祈っております。
こんな時にはライアーを手にします。そして気持ちを込めて、シューベルトの「リタナイ」(祈りの曲)の伴奏を弾きながら歌います。皆さんに少しでも私の思いが届く様にと祈りながら。
ライアーは、聞く機会が残念ながら少ないのですが、伴奏に向いている楽器です。弦楽器の伴奏というと一世を風靡したギターの伴奏をすぐ思い浮かべます。カポダストの助けを借りれば三つの和音でたくさんの曲の伴奏ができたのです。ライアーの伴奏もそんな風にしている方もいますが、ライアーには別の趣で伴奏ができると私は色々と試みています。
もう十年以上前のことですが、日本の歌をライアーの伴奏で弾ける様にと頑張りました。それが楽譜集になっているので、今回もその中からいくつかを弾きながら、当時のことを懐かしく思い出していました。
当時作曲中に参考のために聞いていた音楽は、シューベルトの歌曲とクープランのチェンバロ曲がほとんどでした。二人からインスピレーションをもらっていました。シューベルトの歌曲伴奏はピアノですから、ライアーでは弾けないものばかりですが、歌と伴奏の兼ね合いが知りたかったのです。昔シューベルトの歌を歌っていた時には、歌は随分と研究して、それなりにシューベルトの歌心といったものには触れた感触があったのですが、その時はいつも友人たちに伴奏してもらっていたので、伴奏の方には任せきっりで、特に深入りしませんでした。
ライアーで日本の歌の伴奏をとライアーゼーレの小沼さん夫妻からお声がかかり、伴奏の世界がいっぺんに身近なものに変わり、初めてシューベルトの伴奏に正面から向かい合ったのですが、歌を支えていてくれたものがこんなに広い深々とした世界だったのかと、感動の連続でした。
シューベルトのピアノ伴奏はピアノの独奏曲とは違いものでした。歌には、歌詞があり、それを歌うメロディーがあります。そこに伴奏が加わるのですから、ピアノの独奏曲を作るのとは誓って、制約があります。
不思議な体験は、シューベルトは伴奏と歌とが彼の頭の中で同時に進行していたのではないかと感じた時です。シューベルトの歌と伴奏は、二つの世界が独自の世界観で出会っているものです。ただ和音を鳴らし伴奏しているのではなく、伴奏は伴奏で一つの世界をしっかり持っている「作品」なのです。それがこんなに見事に同居できることが不思議でした。そこがシューベルト以前の歌曲作曲家と決定的に違うところです。
さてライアーでそこをどのようにクリアーしたらいいのかという課題がありました。歌詞を読み、メロディーを聞いて、全体像をイメージすることから始めました。色々と悩んでいる中から海の伴奏の波のイメージが音となって聞こえてきました。オクターブを使って波のうねる様子を柔らかく表現できたのです。この時の喜びは忘れられません。今でもこの伴奏は大好きで、歌わずに伴奏だけを弾きます。透明な水が波打っている様子が音となってライアーにぴったりだと我ながら感動するのです。
ふるさとの伴奏ができたときも「なんでこんなことが自分にできたのだろう」と感動でした。実は友人に歌曲の伴奏をお仕事としている女性がいます。私のシューベルトの歌曲の会で伴奏してくださったことがある方です。彼女がソプラノの歌い手さんの歌曲の夕べのとき、アンコールに歌われた故郷に、私のライアー伴奏を使ってくださったのです。後日この伴奏の方が曲のイメージにずっと近いと言う感想をいただきました。
もう一つこの故郷の伴奏にまつわる逸話です。この伴奏を気に入ってくださった画家のかたが一枚の絵にしてくださったこともあります。故郷と題されたその絵は、私の伴奏からインスピレーションされたということでした。
ライアーと言うピアノから比べると規模の小さい楽器でも、イメージの仕事という観点からは同等に張り合えるのだと思っています。近い将来、また歌の伴奏に新たな思いで挑戦してみようと思っています。
2021年2月16日
光と影を持つのは人間のサガです。100%善人という光だけの人はいません。同じように全くの悪人という真っ暗な人もいません。探せばいるかもしれませんということではなく、これは断言出来ます。私たちはみんな混ざり物なのです。
光と影、善と悪の微妙な配合が人間としての味を作り出します。ところが人と出会った時など、その人が持っている特技が際立て、その人を特徴づけている様に見えてしまいます。例えば、足が速いとか、高く飛べるとか、サッカーでゴールの名人、抜きん出た野球のバッター、編み物の名人、和裁の名人、腕利きの大工さん等々、色々な特技の持ち主がいますが、それはその人の中で1番目につくものであるのは間違いないことです。
もしそういうところに目が眩んで、その人と結婚したらどうなるでしょう。他人として外から見ていた時は華々しく見えたのでしょうが、家庭に入って、共同生活を始めると、一番近くにいる人にそんなに目立ってほしくないものなのです。そんなものは却って二人の間の絆にとって邪魔になるだけのものなのです。旦那さんは、奥さんは、特技があって有名な人なんかよりは無名の、ぶきっちょうな素朴ないい人が最高です。結婚は生活の条件をどのくらい満たしてくれるかで相手を決めるものではありません。私は少なくともそう思っています。相手のお財布でも、名刺でもなく人柄で決めます。
人柄が何で作られているのかというと、善人と悪人の混ざりです。それが模様であり、柄を作るのでしょう。その模様の味わいを読んで、この人柄の人とならと、決められるのなら結婚はなんとかやっていけると思います。
人間は自分で自分が善人なのか悪人なのか判断できません。人に決めてもワウものでもありません。私は正義に忠実な人間ですと言って善を装っている人ほど醜い者はいません。偽善は最高に醜いです。政治思想に走る人たちの中にこの善を装う人が多いのにはびっくりします。合理的に整理がついた様なことを言う人は自分の考えが正しいと自信を持つのですが、どこにも根拠がないことを知らずに自惚れているだけです。あるいは知っていてパフォーマンスをしているだけなのかもしれません。それはもっと醜いです。
今回のアメリカの大統領選挙では色々なものがよく見える様になって、とても勉強になりました。
善と悪は本当はユニークな組み合わせだと思っています。例えば映画で悪役をする人ですが、この人たちはいかにも悪人らしく見えてスクリーンに現れると観客は腹の底から煮えたぎってくるものを感じるほどですが、悪を引き立たせられるのは根がいい人に限るのだそうです。そのいい人が悪役を演じるとき、悪が際立ってくるのだそうです。でもその逆は成り立たないと言うことでした。不思議です。