人生論は何処に

2021年2月13日

若い頃に父が買ってきた人生論を読んでいたとき、宗教に深入りしていた従兄弟がその本を見て不満そうなので、何が不満か聞いてみると、宗教を持たない人間には人生なんか語れないということでした。では人生は宗教を持ったものだけのものなのかと反論しましたが、私たちは平行線でした。

最近は人生論の類のものがなくなっているような気がしますが、どうなのでしょう。本に詳しい方でご存知の方がいたら教えてください。

 

生まれた時から人生の旅は始まります。そしてそれは死ぬまで続きます。ところが、幼児期、小学生の時、中学生の時といった初めのうちの人生は、人生を生きているという手応えのない人生です。高校、大学、社会人と進んでゆくと少しずつ手応えが感じられるようになりますが、その時点ではまだ入り口に立ったばかりです。ようやく二十代も半ば過ぎる頃になると人生らしきものの中で揉まれながら、一人前と言われるようになります。

しかし四十を迎える頃になって二十代を振り返ると赤面の連続です。二十代の人生と四十を迎える頃では人生に対しての根本的なものが違います。一番違うのは自分と距離が取れるようになるところです。二十代は無我夢中でした。四十の声を聴くようになると少しですが余裕が出てきます。とんかつを注文したのにカツ丼かきたら、二十代の人は店の人に文句を言いますが、四十を過ぎれば、「注文と違うけどいいですよ」と言って、美味しくカツ丼が食べられるものです。

五十代、六十代となるとまた一皮向けて穏やかになり、七十代となれば人生に貫禄がついて、八十代、九十代となると枯れた人生の味わいがあります。

 

無我夢中の人生では足し算的に生きていますが、あるところから人生には引き算が加わってきます。齢を重ねればいろいろなことができなくなりますが、それは退化するということではなく、引き算的成長というのです。立派な成長です。しかし足し算的成長しか頭にない人は引き算的成長を退化と感じ認めたがらないものです。

私は今年から七十代の仲間入りをしますが、引き算成長の入り口に立っているような気がしています。記憶力が今までは違うようです。体の動きも若い時とは違います。ただ今はまだ違うと感じているだけで衰えているなどとは毛頭考えていません。

算数の世界には足し算、引き算、掛け算、割り算がありますが、ただ計算するための道具と言うより、数と数の関わり方の違いを楽しむためです。それによって数の関わりに多様性が生まれます。人生も同じです。自分と周囲との関わり方にいろいろなパターンがあるのです。それによって私たちの意識が変化します。人生にも、足し算もあれば引き算もあるのです。算数が足し算だけだったら大したことが計算できません。人生がもし足し算的成長だけだったら、単調で、物質中心になり、肥満的な人生になってしまいます。ついには心身の健康を害してしまうでしょう。人生には引き算的成長が必要なのです。意識が精神化するためにです。

 

正直に言うと私は人生論なるものが苦手でした。あの時以来一度も手にしていません。また従兄弟が言うように宗教だけが人生を語れるとも思っていません。私的には、人生は足し算に引き算が加わってからが面白いと独断的に言わせてもらいます。引き算的人生論かもしれません。こんな人生論なら、もう少し時間を割いて深めても面白そうです。

子どもらしさ、それとも幼稚

2021年2月12日

幼稚と言われたらどこかで笑われていると思った方がいいです。大人になっていない、大人気ないということなので言われたら軽蔑されています。ちゃんと大人になるのは人生では大事なことです。

ところが子どもでいることが求められることもあります。子どもでいるというのはキリスト教の聖書ではいいこととして書かれています。天国にゆくには子どもでなければならないのです。大人は天国に行けないということではなく、大人になっても子どものような無垢純真さを保っていなければならないということでしょう。

大人になる方がいいのでしょうか、それとも大人にならない方がいいのでしょうか。

 

この見方の違いには物質主義的な考え方と精神主義的な考え方の違いが顕著に現れていると見ています。

社会的にみれば、大人にならならなければならないわけです。経済的に自立して、社会的になんらかのポジションを持って生きることに努力します。そのために勉強をします。成績優秀な人は社会的に出世していい生活が保証されます。これらはみんな物質主義的に考えれば当然のことで、今の社会の仕組みは大方この考えに沿って組み立てられています。人間はその社会の組み立てのためのものとさえ言えるかもしれません。

しかし子どもでいることを奨励する精神主義的な考えに従えば、それとは別のところに人間を人間たらしめているものがあると考えるのです。キリスト教的に言えば「人はパンのみで生きるにあらず」ということで、ここからはキリスト教だけでなく、全ての宗教からの発言が影響力を持ちます。基本的には欲を捨てるのです。出世欲、金銭欲、などですから、物質主義的な考えとは真っ向から対立します。精神主義者たちは物欲を顧みないので、お金のことを言いたがりません。名誉欲も良くないものとみなされます。

 

唯物的に考えたら、しっかり大人になってお金儲けをしてお金持ちになって豊かに暮らすことはいいことです。しかし精神的な生き方から見ると、欲の突っ張った大人にはならない方がいいのです。無垢で、貧しいことが天国へ通じるからです。

 

この世的にしっかり人生にどっぷり浸かる方がいいのか、あるかないかわからない天国に行くためにこの世的なものを放棄するのがいいのかということになりますが、個人の選択に任されているものですから、ある日突然180度転換することもあります。私の父の学生時代の友人で職業軍人だった方が、ある日訪ねてきて、今は司祭をやつていると言っているを耳にしたときには、若い私は耳を疑ってしまいました。軍人と司祭が結びつかなかったからです。

後でだんだんと分かってきたのは、私たちの中にはどちらもいるのだということでした。どの傾向を生きるかはその人に任されたものです。その人の家庭環境などです。主義という言い方がされているので固定しているもののように見えますが、実は流動的なもののようです。また自分で決めているようで自分でも決めかねているものでもあるようです。

「理想の」とは

2021年2月11日

理想について考えて見たいと思います。とは言ってものっけから理想を相手にするのは難しそうなので、「理想の」「理想的な」という形容詞から始めたいと思います。

「理想の何々」はよく耳にします。理想の男性、理想の女性、理想の旦那さん、理想の奥さん、理想の先生、理想の家庭、理想の家、理想の学校と言ったものです。ところがこんな人はどこにもいない人のことですし、理想の家はどこにもない家です。理想の学校も同じことでどこにもない学校です。理想の旦那さんを待っていたら一生結婚はできません。

 

「理想の」と言うのは私たちの思考回路の中に根強くある癖ですから、つい口から出てしまいます。未来に今実現していないものを託すわけですが、その未来は今の延長の未来ですから純粋な未来とは言えない未来です。そして主観的な未来です。未来への希望と言えば聞こえはいいですが、理想の国家とか理想郷、ユートピアなんて、結局は各人が主観的に想定した未来の公倍数に過ぎないのです。主観ですから客観的には、将来にだって存在し得ないものということになります。

「理想の」は別の観点から見ると「正しい」という意味にも取れます。正しいの方も実は主観的なものなのですが、正しいには他と比較した分ただ主観的とは言えないところがありますが、「理想の」は全く主観の世界のものです。しかも思い込みが強いので、理想に走る人たちとは付き合いにくいものです。「理想の」に目くじらを立てるのではなく、のんびりと目標程度のものにすれば少し現実味が増すので、「理想の」が付き合いやすくなります。

 

「理想の」というので遊べると頭の体操にはもってこいです。ちなみに私の理想の女性を告白すると、「嶺麗しく情けあり、つまり容姿端麗にして頭脳明晰、しかも心優しく暖かい人」です。こんないないだろうとは思うのですが、我こそはと思うかたどうぞ名乗り出てください。

もし仮にいたとしても、手の届かない高嶺の花でしょうから、いてもらっては困るというのが本音です。なので、いないのではないかということで却って心はずませることができるような気がします。

恋は盲目です。人間とは便利にできているものです。ということは。好きになった人が理想の女性ということにしてしまうのです。さらに自分の理想をその人に無理やり当てはめて仕舞えばいいわけです。これは私だけのことではなく、皆さんだって似たり寄ったりなのではないのでしょうか。