2021年2月11日
リロと厚かましくも呼ばせていただいた女性が、ひと月前96歳でなくなり、一昨日のお葬式に参列しました。「リーゼロッテ」が正式名です。私の人生にとってかけがえのない人でした。彼女への思いを書かせていただきます。
コロナだけでなく、寒波による風邪の流行、雪に閉ざされたドイツと散々な状況の中のひっそりとしたお葬式でした。
リロは私の家内の両親と若い時から親交があり、義父が中心になって70年前から毎月一回メンバーの家で持ち回りでやっていた、二十人からなる小さなコーラスの最初からのメンバーでした。小さな時から歌には特別の思い入れがあったリロは、小学校、中学校、高校、大学時代、社会人になってからもずっと歌い続けました。
仕事は会計事務所の代表者として、自分の会計事務所を切り盛りしていました。たくさんの農家の経理を見てあげていたと言うことです。「手数料は少なかったけどね」と悪戯っぽく話してくれたことがありました。そのほかに様々な会の代表、顧問を歴任したキャリアウーマンの走りでもあったのです。家族には恵まれなかった彼女です。戦後のドイツは戦争に駆り出された男たちが外国に捕虜として残留していたため、当時のドイツ国内の女性と男性の比率は極端に女性に不利な状況でした。
リロは一人で生きてきました。ところが彼女の周りにはいつもたくさんの人がいて、みんな「リロ、リロ」と呼んで親しげに話しかけるので、彼女の予定表は、もう三十年以上リタイヤーしているにもかかわらず、びっしりで、向こう二週間の予約を取るのが難しいほどでした。
リロには14歳年下の妹がいます。「妹は若い頃にドイツ赤軍で政治活動して、刑務所入りになってね、大変だった。大変だったのは実は周囲の人たちの方だと思っているよ。それまで友人だった人が批判的な冷たい言葉を浴びせていたのが忍びなかったよ。政治犯である以前に妹だからね、全力で彼女をかばったよ」と嬉しそうに自信に満ちた話ぶりでした。この言葉は、初めて聞いた三十年前から片時も忘れることのない言葉です。「妹だからね」。二人は母親を亡くしていましたから、リロは妹の母親変わりでもあったのでそう言う言葉になったのでしょうが、姉妹の絆が生き生きと私の心を捉え、美しささえ感じていました。そう言い切ったリロのきっぱりとした気性は、戦時中の反ナチを貫いた姿勢にも現れています。
リロは96歳の生涯を雪に覆われた真っ白い日、立派に終えました。「何も悔いはないよ。やりたいこと、できることはやるようにしていたからね」。最後少しの間だけ、粗忽症と腰の痛みがひどくなった時もありましたが、大往生です。
あれもこれもと言う、ガツガツした無い物欲しがりのところは微塵もなく、足るを知るあっぱれな人生の幕を一人静かに閉じたのでした。葬儀でのお別れの言葉が輝いていました。昇天してゆくリロがとても美しかった。リロは96年の間一人で生きて一度も孤独ではなかった、リロはリロで完結した存在でありながら、いつもみんなの中に生きていた。リロ、ありがとう、そしてさようなら。
2021年2月10日
大事なのは今です。
今は今しかないからです。
今は一番確かなものです。
今が束の間に見えるのは、本当の今を知らないからです。
時間を計る癖がついてしまったのです。
時間を計る癖は考える癖と同じで、思考中心的知的人間から抜け出せれば今が再び蘇ってきます。
そもそも時間は計るものではないのです。
時間と言わずに「トキ」とすると何かが変わりそうです
時間というとつい計ってしまいますが「トキ」は今の流れている姿です。
過去のことはたくさん考えられます。
未来もあれこれと考えて遊べます。
それでは考えているだけで人生からはみ出しています。
過去であれ、未来であれ、考えている時は今が消えてしまっています。
考えるというのは非現実的なことなので現実的な「今」が苦手です。
現実に足をつけると今を感じます。
そして、喜びと幸せの中にいる自分を感じます。
今と自分は同じものを別の言い方でしているだけなのです。
2021年2月9日
類は友を呼ぶというのは、70年人生をやっていると否めない事実だということがわかります。よく似た人たちが集まるというのは、良い悪いではなく、一番居心地がいいということなのでしょう。
私たちは似ている人同士引き合います。出身地が同じだからでしょうか。それとも趣味が同じだからでしょうか。それとも社会的境遇でしょうか。何が人をお互いに引き付け合うのでしょう。
そこで働いているのは意識です。
意識という言葉はできるだけ使いたくないと思っていたのですが、使わざるを得ないようです。使いたくなかったのは意識は説明できないものだからです。意識について話し始めると墓穴を掘るようなもので、迷路に引き込まれてしまうことを今までに何回も経験しているからです。
しかし人間同士が引き合っているという事実の前に、嗅覚という感覚的な話にしたくないのです。もちろんここで嗅覚と言っているのは何かが本当に匂っているわけではなく、喩えとして使われているだけです。この嗅覚が意識です。
意識というものがあることは分かり切っています。試しにここで意識という言葉を挙げて見ますが、すぐに気づかれると思うのですが曖昧な使われ方がされているので混乱しています。「意識過剰」、「意識的に」、「意識不明」、「意識の違いだから」、「意識が変わらないと」などです。考え方とか知覚という意味と同じように使われています。
「あの人とは意識が違う」のと「あの人とは考え方が違う」のはほとんど同じ意味ですが、ほんの僅か違います。
「意識が変わらなければ」も「考え方を変えなければ」もほとんど同じですが、違います。何かが違うのです。何がどう違うのでしょう。考え方というのは思考によって得られるもののことです。知的な作業です。一方意識は知的なものではありません。知的な働きは常に方向を示します。しかし意識はもっと力を抜いた自然体でいる時に見られるその人の為人(ひととなり)からのものです。無指向的です。あるいは以前のブログ(2021.02.05)で言ったように直感から来るものです。考え方の違いという時には力みを感じます。ところが意識の違いの方は力が入っていません。そのため深いところから来ているような感じがします。本質的なのでしょう。意識は思考よりも深いのです。意識の違いというのは、ある意味では変えようがないくらい深く、ほとんど運命的と言えるかもしれません。ある人に意識の違いを感じたらその人と別れなければならないでしょう。ところが、考え方の違いは話し合えば解決することもありうるものです。意識は無重力の状態の中に存在しています。だから触れることができないものです。思いは違います。重いので感触があります。意識はあるのに感触のない不思議なものです。