無明のことについて
無明とは仏教的な考えの中で光が届いていない所のことを意味します。遍く照らしている光でも届いていない所がありそこは自ずと暗くなってしまうということです。仏教では悪の存在を言わないので、善と悪を対立させるという考え方がないと理解しています。善悪の対立はペルシャの時代のゾロアスター教、拝火教から生まれたと言われ、それ以来善と悪が対立したり、善が悪を退治するようになったのです。
悪の存在を認めるのではなく、ただ光が届いていないと考える所に仏教の大きな魅力を感じます。よくないことが起きてしまうというのはそこに光が届いていないからだと見ているだけなのです。悪と決めつけるのではなく光が足りていないというわけで、素晴らしい考え方だと思っています。善と悪と区別をすることは、想像するにイデオロギーの始まりなのかもしれません。無明は流動的ですがイデオロギーは固まってしまって変化しようがないものです。イデオロギーの世界はこれ固まった世界になってしまうのはそういうことなのかもしれません。
心の中の喜びは光そのものです。心が光に満ちていれば喜びに満ちているとみるのです。心の中の嫉妬や、恨みというのはそこに光が当たっていないから起こることなので、暗く喜びが足りないということなのです。現代病の鬱病も無明的に見たらいいのかもしれません。心に光が届いてないので、喜びが少ないようです。
足るを知るということはなんでも与えられて満足しているということとは違います。貧しくても足るを知るという気持ちになれるものだからです。ガツガツしている、もっともっとの状態とは間反対です。私たちの時代は欲望がまっしぐら突っ走っていますから、いつまで経っても、足りていないと感じて生きているような気がします。これはまさに無明ということそのものなのです。
音楽にさり気なく耳を傾けているときに、心が満たされることがあります。それは決まって、今聴いている演奏が光に満ちている的でした。技巧だけで突出したり、思い込みで固めてしまい、挙句のはてに「凄いだろう」と自惚れている演奏はガツガツした演奏で疲れます。日狩りが届いていない貧しい演奏だからなのだと思います。技巧的にすぐれて上手というのが今日の演奏家たちの常識になっていますが、そこに固執してしまうと、ガツガツが表にでしまい、聞き手の心を満たすことができないくらい冷たい演奏になってしまいます。光が足りていないのです。音楽が喜びで満たされていないというのは、音楽というよりも雑音に使い物のようです。それは致命的なものだと考えます。
品という字は、「ひん」と読むか「しな」と読むかで随分違ったものになってしまいます。気品という世界を感じるか、品定めや品評会のような世界に惹かれるかと、はっきりと分かれてしまいます。気品を生み出しているのは足るを知るが息づいている時です。満足感や喜びから生まれるもので、品定めは欲がらみのガツガツからのことが多いと思います。どの言語にも「ひん」にあたるものがあるのは嬉しいことです。ドイツ語ではWürde(ヴュルデ)となると思います。人間の尊厳さということです。人間を尊厳の立場から見られるというのはなんと幸せなことでしょう。
難しい話だったので、筋がまとまらず取り止めのない文章になってしまいました。